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身近な人間に向けての裏アカと、不特定多数に向けての「裏アカ」

私は、肩書きと年齢以外は素性を隠している。

別に有名人でもなく、ただの一般ピープルだが。

私は、私としてしょうもないぼやきや、ふと考えたことを投稿するのはとんでもなく恥ずかしいと思ってしまう。

それに、誰得感が半端ないのだ。

見ず知らずの不特定多数の人に向けて発信した方が気楽なのだ。

なぜかって、生身の私を知らないから。
そして、きっと、少しでも共感してくれる人や、気になる人しか見ないから。

フォロワーがほぼ9割知り合いのSNSでは、こんなぼやきを言えない。

だから、あの気軽にできるストーリーですらめちゃくちゃ見られ方やら色々を考えてしまう。
不快にならないか、いつもの私っぽいか、とか。

誰も気にしないかもしれないが、私はものすごく気にしてしまう。

でも、少なくとも私がぼやきや愚痴を投稿したとしたら、見ている側はストレスでしかないと思うのだ。
こいつ病んでるな、と思われるし、え、すごい暗いじゃん、みたいな。
知り合いのストーリーや投稿では、そういったものをみたくないと思うのだ。

少なくとも、私はそう思ってしまう。

SNSで知り合いのストーリーやFacebookを見ると、たまにものすごい病みツイート的なことを発信していたり、哲学的なことを言っている人をみるのだが、
私は結構驚きと、少々冷めてしまうというか、なんとも言えない感情になるのだ。

もちろん、時に共感したりするものもある。
だけど、なんだか、むずがゆい。

その気持ちわかる。なんて気軽に言えないのだ。
本当は共感しあえたら楽になれるのかもしれないが、知り合いとは結構厳しいのだ。
これはあくまでも、「知り合い」や「よっ友」くらいの関係値の場合なので、親しい仲の人は別だが。

自分が接している時のその人とちょっと違う面を見ると、怖いのだ。

会った時、いろいろと言葉の裏などを考えてしまう。
SNSでの投稿を、結構気にしてしまうのだ。

なら見るなよ、と思うかもしれない。(毎回自分にそう突っ込みたくなる)
だけど、やっぱりみてしまう。
(詳しくは、過去記事のこちら

だから私は、知り合いにそう思われたくないし、素が複数あったり、第二の顔的なものがあるなんて知られたくない。
裏があるのかも、なんて相手に勘ぐられたくないのだ。

私は大多数にとっては裏表のない明るい人、で通したい。

だから人は、裏アカというものを作ったりするのだろうけど。

裏アカの場合、本アカ以上にフォロワーは身近な人なことが多い。
裏アカを作る人は、身内に共感を求めているのではないだろうか。
わかるよ、わかるよ、といって欲しいのではないか。
また、病みツイートをすれば、大丈夫?話聞くよ?と心配されたいのではないか。

裏アカすら、他人に「裏アカがある」ことを知られているならば、完全に裏があることを知らせているのと同じだ。

おまけに、見たい人だけみて。とか書いてある。

…怖すぎる。

裏アカ裏アカと言うならそれはもう裏アカではない気がする。
もはやサブアカなのではないか。

こういう、素性をほんとに明かさずに投稿するものこそ、「裏アカ」な気がする。

そんなわけで今後も、どこの誰かわからない人間の、どうしても誰かに話したいと思ったことを、少しでも気になってみてくださる人に向けて、「裏アカ」を更新していきたい。

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