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煮込みが正義の女ひとり酒

煮込みが美味しいともうお手上げだ。お酒の前に全面降伏。心を覆う殻も強張っていた表情筋もほどけて、湧き立つ多幸感を止めることができなくなる。

その店は入り口側が一面ガラス張りで、中の様子が遠目からもよくわかった。ちょうどお店の人が路面の立て看板を直しに出てきたので、道路を渡って声をかけた。ひとり、入れますか?

「歓迎」を一面に表した笑顔で、その女性は私を中へと誘った。キッチンを囲うように仕立てられた立ち飲み用のカウンターでコートを脱ぐ。

「千円札、ザルに入れてね」

おしぼりを持ってきた男性店員が私に声をかけた。カウンターには取り皿と同じくらいの大きさのザルが二枚重ねてある。ここにお金を入れておけば、注文した料理を持ってきたタイミングでお店の人が勘定してくれるシステムらしい。下のザルにお札が、上のザルにはおつりの小銭が置かれる。

まだ平日ど真ん中。深酒をするつもりはない。財布から二千円を抜き出し二枚のザルで挟んだ。注文したビールと二品の小皿が届くと、ザルには小銭が残った。ザルにお金を入れることで予算を決められて、その減りで自分の飲んでいる量がわかる。見た目も粋な上に、ひとり飲みには安心のシステムだ。

立ち飲みのカウンターからはキッチンで働く人たちが見える。おいしいですよ、楽しんでいますよと表情で伝えながら飲む私は、少し人を意識しすぎているのかもしれない。ただ、そうやって心の中で呟いているうちに、楽しさが二倍三倍と膨れ上がっていくものだからおもしろい。悪いことではないだろう。

テーブルのビールジョッキを見ると、金色のシュワシュワはもう指二本分しかなかった。料理の小皿はまだ潤沢だったので、急いでビールのお代わりを手配する。仕事を終えた開放感から心が炭酸を欲していた。ザルの中身はもう500円もない。

背後にはテーブル席がたくさん広がっていて、秋葉原のサラリーマン集団が三、四人ずつのグループになって各々くつろいでいる。ひとり飲みでその中心にいるのに居心地は少しも悪くないから不思議だ。それぞれの客が放つ開放感と私が放つ開放感がお店の中で漂って、混ざって、天井まで昇っていく。「お疲れさま」の一体感がそこにはあった。

今度はビールが残っているのに小皿を平らげてしまった。メニューにオススメと書いてある煮込みを注文する。お酒と料理、終わりのタイミングが合わない幸福のループ。

煮込みを届けにきたお店の人がザルからお代を取っていった。ザルの中は空っぽだ。煮込みを口に運べばオススメというのも納得の美味しさ。果たして、私の手は財布に伸び、ザルに二千円が追加されたのだった。

女ひとり酒の夜はまだまだ続く。


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