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『生命式』(2編)(村田沙耶香著)を読んで(感想文)

『生命式』
村田沙耶香は誰も想像したことのない非常識な世界を、普段の私たちの生活に落とし込む天才だと思う。

この小説でも、死んだ人の遺体を食べることで、新しい生命を生み出そうとする人々が登場する。それ以外は普段と変わらない日常があるだけ。

主人公の池谷真保は小さな頃、人間を食べたいと場の勢いに合わせて言ってしまい、まわりから大顰蹙を受けた経験を持つため、その習慣に違和感を覚えていた。

正常かどうかの判断は、いつもその時代のマジョリティにより決められる。それについていけない人はマイノリティとして生きづらい生活を強いられる。

そんな違和感を会社の同僚で、男友だちの山本が緩和させていく。
「楽しめばいいんだよ。この一瞬の嘘世界をさあ」その言葉に納得はできないものの、彼女は理解しようと努めます。

その山本が死に、生命式が行われ、彼女は山本の肉を食べます。その際、彼女はまったく抵抗感がなかった。

帰りに寄った鎌倉の海で多くの男女が受精しているのを真保は見ます。それは自然界の営みの世界とまったく同じものだった。つまり、エロスもない、不潔さもない、後ろめたさもない、自然そのものの光景でした。

真保は海岸で知り合ったゲイの男性から精子をもらいます。
「正常は発狂の一種でしょう? この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います」
その言葉を聞いて、真保は海に入って受精します。

死者を食べ、受精するシステムについて、彼女はすでに受け入れています。

時代が変わるたびに正常(常識)が変わっていく。それは諸行無常の理であり、誰も止めようがない。狂気が正常になるその瞬間を味わって、真保は自然を受け止め、宇宙の真理に気づいたのだろう。人間だって自然を生き、宇宙と繋がっている。それに気づいて、真保は人生で一番満たされた時間に身を委ねる。

それはどんな気分なのだろうか。一度は味わってみたいものだ。

『素敵な素材』
この小説にも新しい時代についていけないナオキという主人公の婚約者が出てくる。

今回は、死者の再利用がテーマとなっている。

死者の遺体を道具として加工することが当たり前の時代。正常とは何かを問うているのは、『生命式』と同じ。今度は男女の立場が代わっているが。

ただ死者から作られた家具やシャンデリアが高価な商品として扱われているのには疑問がある。

もし、人間の再利用が行われるとしたら、そのための人間生産性を今よりはるかに高めなければならない。小説ではそこまで示していないが、インテリア販売店での会話を聞いていると、この世界には資本主義が生きている。需要と供給を考えれば、そして生産の効率性を考えれば、子どもを産むことが事業になる。

そこでふと気がついた。この小説は『生命式』からある程度経過したあとの未来の話なのだと。センター出産で育った子どもたちは生まれた時点ですでに商品なのだ。魚の養殖と同じと考えればいい。

ここに至って、村田沙耶香という作家は天才というだけでなく、恐ろしい女性というイメージが追加された。

燃やすのならば再利用しろ。それは未来の話ではなく、現在でも言われていること。でも、ここで言っている再利用は経済活動としてお金を生んでいる。

僕は死者を燃やすのではなく、土葬したうえでバクテリアに食べてもらうという食物連鎖を続けていくことが、本来の再利用だと思っている。

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