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美しい女(ショート・ショート)

最近、物忘れがひどくて困る。これもやはり加齢のせいなのかもしれぬ。

かけたままのメガネを探したり、何かを探しに2階に上がったはずなのに、何を取りにきたのか忘れたりするのは毎度のこと。
人の名前を思い出せないことも多くなった。
このあいだなど、トイレに入って、ズボンのチャックを下ろし、サオを出して、放水準備完了、しかし肝腎の尿が出ない。さて、どうしたものかと考えて、そうだ、俺はお茶を飲みたくて居間を出たはずだったと思い出す始末。自分で自分が情けない。とりあえず、水を流してその場を繕った。

アルツハイマー病なのかもしれない。そうならば、今は進行を抑える薬もあるようだし、女房に世話をかけたくない。念のため病院で検査したほうがいいだろう。そう思いたち、
「ちょっと出かけてくるよ」
と女房にひと声かけて、玄関を出た。
そこまでは良かったのだが・・・・・。

空は雲ひとつない青一色に染まっていて、木枯らしが吹きつけてくる。身震いしながら、マフラーをしてくればよかったと後悔して、ふと思った。
「さて、俺は何しに外へ出たんだっけ?」
もうすっかり忘れていた。

立ち止まって考えてもわからない。目をつむってみてもわからない。かといって、歩き出してもやはりわからない。たぶん走ったところで思い出せないだろう。さて、困った。

このまま帰ったら、女房に
「あら、早いわね。どこへ行ってきたの?」
などと突っ込まれるのがオチだろう。
「行き先を忘れたから帰ってきた」
とは恥ずかしくて言えるわけがない。
仕方なしに運動のためという理由をつけて、町を散策することにした。

歩いていると、前を女が歩いている。後ろ姿は俺の好みで、なかなかイケてるぞ。どんな顔をしているのだろう? ぜひ顔を拝みたくなった。ただ歩いてもツマラナイ。それならば、この女の後についていってみようと考えた。

顔を見る機会はすぐに来た。信号待ちをしている彼女の横顔をチラッと見た。若い女だと思っていたが、若いのは服だけで、それなりに年齢はイッているようだ。けれどもこれが俺の好みのど真ん中。俺は昔からこういう落ち着いた雰囲気の女に惚れてきた。今日は大安吉日、祝祭日。目の保養とばかり、さらに後ろをついていった。

先方はこちらにまったく気づく気配がない。スイスイと人混みをかき分け進んでいく。追いかけるこちらも必死に後をつける。

女がスーパーに入った。深追いは禁物だ。息も上がっている。
ちょうどいい具合に、スーパーの前に公園があった。水飲み場で口に水を含んで吐き出す。それを3回繰り返し、最後の一口は飲み込んだ。
ベンチに腰かけてひと休み。だいぶ歩いたから体も暖まっている。しばらくは無邪気に遊んでいる子どもたちを眺めていた。子どもの笑顔ほど心を癒やしてくれるものはない。自分自身も若返った気分になる。

体が冷え始めたから、そろそろ帰ろうかと立ち上がったとき、女がスーパーから出てきた。
やばい。女は自分のほうを見つめているではないか。もしや後をつけていたのがバレていたのか。女が自分目がけて近づいてきた。ストーカーと間違われてはたまらないと、逃げるように自宅に向かった。
しかし、後から女がついてくる。形勢逆転、気は動転。背中は汗でビッシリ。息も絶え絶え。それでも平気を装って早足で歩いた。女はあきらめる様子もなく、後からついてくる。このままだと自宅の場所がわかってしまう。わざと遠回りをする。どうやらやっと女はあきらめたようだ。

ホッとして、それでも振り返り振り返りしながら、女がいないのを確認して家に帰った。
「ただいま」
「あら、お帰り。さっきはどうして私から逃げたの?」
と聞かれ、見ると例の女が家にいた。よくよく見ると、少し若作りをした女房だった。
脳みそだけでなく、目までイカれてしまったのかとショックを受けたと同時に、出かけた理由を思い出した。そうだ、病院へ行くつもりだったのだと。

それにしても女房の顔までわからなくなるとはどうしたものか。明日は絶対に病院へ行かなければいけない。次いでに眼科にも行ってこよう。

散々な一日ではあったけど、ひとつだけ良いこともあった。結局、女房も捨てたものではないということだ。その日の夜は、久しぶりに新鮮な気持ちで女房を抱くことができた。

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