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2019.9と2020.03の言葉

わたしには恋人がいる、世の中のいろんなひとには恋人が、あるいは家族が、親友が、なにかしら結びつきの強いとされる関係(関係性ではない、それは確かに、今、保たれている)をもっている。

恋人とわたしは、毎日のように連絡を取り、ときどき電話をし、互いのしょうもない愚痴を聴き、一緒にご飯を食べ、笑い、喧嘩もする。なんども好きだと言う。愛し合っている、ということは他の誰が認めなくとも、当人同士がそう思っていればいい。もっといえば、わたしが信じていればいい。あるいは、あなたが信じてくれていたらそれでいい。他人のこころなど知ることはできないのだから。

川辺を同じ速度で歩き、生緩い風に吹かれひとり感傷を覚えても隣の彼には届かない。どこまでいっても、恋人だろうが、息子だろうが、父親だろうが、母親だろうが、もはやなんでもいいが、それは、わたしではないことだけが確実。恋人は、わたしではない、がしかしそれがわたし自身だったところで、なにかが変わったのだろうか?
              ( 否。)

わたしはきっと、わたしという人間、個人、存在、特徴。そのどれをも把握していない。他人からみたこの顔は常にわたしの見る表情とは反対の顔をしており(それは物理的に)、主観は長所と短所を誤解させる。あるいは、あるいは? あなたの奥底の色を見ている錯覚をわたしが覚えているように、あなたはわたしも知らないわたしの素晴らしいものを知っているのかもしれない。海よりも透明な青色をしたあなたのこころの底。わたしがまもろうとしているものは幻想に違いなく、それでもいいと信じ切るこの強さが運命である、というようなことを彼はそう言った。

どこにも行けずに触れ合えない平行線の話をするはずだった、それなのにどうしてか、奥底に入ってしまった。中身はとうに侵食されていた。愛しい恋人に。

(9日分の空白)

その人は、どこにもいけない振りをしている。

もう何度もこの世界に行き来していながら、わたしを踏みつけたり、受け入れた振りをしながら。肝心なところで目を瞑るのだから、なにも見えないと叱ったら、あなたは、いや、君は怒るかな。

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目を閉じる。重いまぶたをもう一度上げてみる。隣にはコットン100%の黒いTシャツに包まれた太い腕が、緩く口元を開き未だ眠るその横顔がある。使い古されたチープな表現が許されるのならば、胸が締め付けられるような気がする、といったところだろうか。こんなにも近く、これほどにも遠く、カーテンの微かな太陽の光に顔に一直線に白を入れたその顔は我が子のようだ。

どうか目を覚ましてどこか遠くまで歩いて、そしてもう二度と戻らないときも、この愛を覚えていておくれ。ずっと後ろを振り向いてくれたらそこにわたしはいるからね、そのことを忘れずにいて。


「戯言だ」と地続きのこころの奥底で自分自身に罵られる。そんなものは自己愛だと。馬鹿だな君は。それでいいのさ、世界は思うよりずっとやさしいのだから。

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