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パフェを味わうこと、文学を味わうこと—他でもない私が語ることの意味 —

12月中旬、ずっと追いかけているパフェ職人の srecette(エスルセット)さんの34作品目のパフェ『Râpeux』を豪徳寺のお店でいただきました。

店頭のポスター

srecetteさんのパフェとの出会いは2016年のことで、気がつけばもう7年以上経ちます。通うようになったのは2017年以降ですが、それでも6年以上の月日が経っています。

今日は、氏のパフェを追い、食べ続けて行くうちに私の中で起きた心境の変化から「私が語ることの意味」についてまで、話していきたいと思います。


私が考える意味はあるのか?

おかしなことに聞こえるかもしれませんが、ここ数年、私はずっと「不調」でした。氏のパフェを食べるということにかんしてだけ、ピンポイントに、です。他の料理やチョコレートを食べているぶんには問題ありませんでした。

雲南紅茶

srecetteさんのパフェを「わかりたい」という強い気持ち(あるいは焦りにも近いものであったかもしれません)、自分よりも立派な食べ手(読み手、解釈する人)がいるのだという劣等感、そういうものから、以前のように素直にパフェを楽しむことができなくなっていたと思います。

以前はパフェを食べ始めると「すっ」と入っていけた器の中の世界に、私はいつの間にか入ることができなくなっていました。そのこと自体に苦しみを覚えていたと思います。

それから私は、大好きなsrecetteさんのパフェを「わかろう」とすることを諦めました。「おいしくいただければ、楽しめればいいんだ」と割り切ろうとしたのです。でも、だめでした。

srecetteさんの作るパフェは、作品です。
そこには作品として読まれる強度がたしかに存在しています。各々のパーツが磨き上げられ、それが総体としてパフェになるとき、食べ手にどんな印象を与えるのか、何を考えさせたいのか、感じさせたいのか。そういったことが、丁寧に丁寧に考えられて、配置や味の強さ、質感、そういったものが決まっています。少なくとも私にはそう思えるのです。
それをただ「美味しいね」といって食べることが、私にはできませんでした。申し上げておきたいのは、そのような味わい方を否定しているわけではない、ということです。ただ、私は、その態度では楽しめなかった。私が氏のパフェを全力で楽しむためには、考えることが必要でした。

『Râpeux』

12月に『Râpeux』をいただいたとき、どうしてでしょう、とても素直に楽しむことができました。考えることもできました。私の中で何かが確実に変わっていました。不必要な自尊心が消え、そこには私とパフェだけがありました。

私はパフェの中に、どんどんどんどん、入っていきました。

それはとても久しぶりの体験で、楽しくてしょうがなかった。
その日の体験を、すこし共有してみます。

考察 srecette 34th Parfait『Râpeux』

srecetteさんの作品タイトルはいつもフランス語で、そこから今回のパフェの特徴や意図を前もって考えることができます。

râpeuxには
「ざらざらした、(ワインなどが)渋い、(声、音などが)耳障りな」
といった意味がありました。これらは食事においてネガティブな要素と言えます。「このような言葉をタイトルとして持ってきたのは何故だろう?」と考えながら、私は席でパフェを待っていました。以下は私が食べる前に考えていたことです。

その1。
料理における、一般的なマイナス要素についての再考がテーマなのではないか。例えば、甘みや旨味に比べて、苦味、渋みというものはネガティブな意味で捉えられがちだが、適切に使われることでおいしさを引き上げてくれるもの。また、苦味や渋みの「質」の問題もある。よい苦味、よい渋み。そういった、一般的に「よくない」とされている食べ物の要素への再考を食べ手に求めているのではないか

その2。
パフェの中にざらざらしたもの、つまりノイジーな要素を入れているのか? そうだとすると、そのことによって全体をどう見せたいのか(この考察にはパフェ評論家のおのやさんのXでの投稿も関係しています)

今回のパフェについては、あらかじめ「五感で(全力で)感じ取ってほしい」というような氏のメッセージを以下の投稿などから感じていたので、五感にかかわるrâpeuxという単語がタイトルに選ばれたのも、納得のいくことでした。

今回の作品が面白いのは、基本的には常に新しいものを作り続けているsrecetteというパフェ職人が、以前の作品、31作品目の『autre』というパフェと、まったく同じフォルムのパフェを出してきた、ということです。

トップにムラング・シャンティ(という名前のフランス菓子)が乗っているのも同じでした。内容は全く同じものではありませんでしたが。

srecetteさんは、この日、パフェを作る前に集まった食べ手の前で、同じフォルムで作った『autre』を食べたことのある方は、思い出しながら食べていただくと「脳がバグって」面白いかなと思います。と、そんなことを述べていました。

srecetteさん本人がこの日お話ししていたことでもありますが、氏のパフェは、食べたことのある人のほうがより楽しめる、解釈しがいのあるパフェになっています。何が繋がっているのか? 何が変容しているのか? 記憶をたぐり寄せながら結びつけることで、目の前の食体験が、目の前のパフェに限らない広がりを持ったものになっていきます。

ここからは実際に食べてみての考察です。

私は「ノイジーな要素はどこなんだろう?」と考えながら美味しく食べ進めていたのですが、それはすごく意外な場所にありました。

パフェグラスの口にあたる、ちょうど、トップのアイスやムラング・シャンティの乗っている部分と、その下の層を仕切っている部分。いつもそこにグラスの口径ぴったりに作られたメレンゲがあり、それが上下を分ける仕切りであり「蓋」の役割をしているのですが、これが普段と比べて厚かったのです。いつもは口の中に入れるとすぐに溶けていくような薄さのメレンゲが、今回はしっかりと味を舌の上に広げ、しばらく形を保ってから消えていきました。

この後のアイスも面白かった。
見た目はかなり近い色合いなのですが、質感が全然違うんです。もちろんお味も違うのですが(一方は「白牡丹」というお茶のソルベで、一方は栗のアイスということでした)、質感の違いがかなり際立っていました。視覚だけに頼らないで、と言われているようでした。
栗のアイスはsrecetteさんのパフェで使うものにしてはかなりしっかりめの食感で作られていて、それが栗の「ほくほく感」を演出してくれます。アイスは滑らかな方がおいしいと思っていた私の固定観念が、硬さによる食感の演出、その巧みさによって覆された瞬間だったかもしれません。

パフェの終盤、違和感がもっとも強くあらわれてきました。そのわかりやすさに驚いたほどです。それは、グラスの一番下にあるカットのラ・フランス、さらには小さく入ったお芋でした(さつまいもクリームの中に、お芋も形を残していたと思います)。滑らかなゼリーやクリームと共に口の中に入って、残り、ん? なんだこれ。と思わせてきます。
このような仕掛けが外側の見た目からは、つまり視覚からはわからない、というのも面白いところで、このことは今回のパフェのテーマと関係しているように思えました。

それから、おそらくはトップの洋梨ムースのブリュレに使われていたものと同じブランデーが香ってきます。あ、トップとボトムに共通項を作って繋げているんだ、面白いな、と感じました。ただグラスの中の統一感を出すため、というよりも、繰り返す時間の感覚、記憶や、季節が再び巡ってくることの表現のように、私には思えました。

私の解釈は私にしかできないということ

冒頭に書いたように、私は一度、氏の作品を本気で味わうこと、感じること、言葉にすることを諦めていました。自分では力不足だと思ったのです。今思えばそれは、馬鹿な悩みだったのかもしれません。

確かに、私よりも嗅覚も味覚も優れている人はいます。でも、同じパフェを食べて、私とまったく同じ体験をする人が、この世にひとりでもいるでしょうか。きっと、いないと思います。

だから、書くんです。言葉にするんです。
私の見えた世界を、誰かに届けるために。
それは作品への愛からくる原動力でもあります。私にはこの作品がこんなふうに素晴らしく見えました、と。

パフェを食べて考察すること—文学研究の意味—

私は今、ドイツ語文学研究の道に進もうとしています。
文学の研究をすること。つまり、ある書き手のテクスト(読みもの)を解釈して発表する、ということは、パフェという作品を食べて、言葉にすることと本質的には変わりません。一生懸命に読んで、考えて、他の作品との関連性を考察し(srecetteさんのパフェが既存の作品と常に関連していることを念頭に置くように)、言葉にするんです。

そこにはどんな意味があるのでしょうか。

先ほど述べたように、同じものを食べても、人がまったく同じ体験をすることはありません。それと同じように、同じテクストを読んでも、全てがまったく同じ解釈になることはそうありません。これは映画の感想や解釈なんかにも言えることです。

テクストを読んだ解釈を提出すること。

それは、一人の人間が、一つの世界の見え方を掲示することです。あなたと私の世界が違うのはわかっています。どんな事実を目の前にしても、捉え方は人によって違うように。だからこそ、自分が正しい、アイツは間違っている、と言うためではなく「あ、こんな世界の見方もあるんですね」と知るために。
あるいは、今後、自分自身が取りうる世界へのスタンスを増やすために。「この考え方いいね」と取り入れてみたり、「これは受け入れられないなあ」と思いながら「でも論理破綻はしてないか」と渋々目をつむってみたり。
そういうふうにしながら、自分自身が変容しながら、世界の「違い」を受け入れていくこと。受け入れることで、自分自身の生きやすさを構築していくこと。そのために、文学研究があるのだと私は思っています。

もちろん、おかしな解釈、というのはあります。何を言ってもいいわけではありません。ある事実に対して、明らかにおかしな捉え方があるように。とはいえ、その線引き自体も難しいものです。

昨今「多様性」という言葉を頻繁に目にしますが、違いを受け入れること、本当におかしなことと偏見でしかないことを判断し見極めるのは、ものすごく難しいことです。それには多くの知識と、考える労力を有します。考えるのには、体力が必要なんです。わからないあいだ、十分な判断材料がないあいだ、判断を「保留」することにもまた、知的な体力を要します。

極端な考えに、そのほうが楽で心地よいからと身を委ねないために。
世界がすこしでも、分断ではなく融和に向かえるように。

食べて、味わって、考えて。読んで、味わって、考えたい。
考え続けたいと思います。

終わりに

沢山のことを考えるきっかけをくれたパフェ、その作り手であるsrecetteさんに大きな感謝と敬意を。あなたの作る「おいしさ」が食べにくる人々のしあわせに繋がっていると、私はいち食べ手として実感します。

また、私にドイツ語文学の魅力と、文学研究の意味を教えてくれた中村朝子先生に、敬意と愛情を込めて。


サポートまで……ありがとうございます。大事に使わせていただきます。