『ガラスの海を渡る舟』寺地はるな~その船を降りて漕ぎ出そう。わたしだけの、小さな舟で。
「俺に言わせれば、道も羽衣子も恵湖も俺も、みんなふつうや」
「ひとりひとり違うという状態こそが『ふつう』なんや。『みんな同じ』のほうが不自然なんや」
…… P41. 42. 道の祖父
「相手の気持ちになって考えましょう」そんな言葉を、小学生の頃から数えて何度聞かされたことだろう。
けれど、相手の気持ちをほんとうに分かる事なんてできるのだろうか。私は、あの人ではないのに。
小さい頃から何度も噛みしめたその思いを、改めて思い出した一冊だった。
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『ガラスの海を渡る船』/寺地はるな著
自らを「普通の子代表」と思っている妹の羽衣子と、幼いころから「普通ではない子」というレッテルを貼られ続けた弟の道。
お互いを苦手とする兄妹二人が、祖父のガラス工房を継ぐという出来事を通し、反発を繰り返しながら少しずつ歩み寄り、生きる形を見つけていく物語。
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「違う」とはどういう事だろう。ふつうの人とふつうでない人が理解しあうとは、どういう事なのだろう。
「あの人は『ふつう』ではないから」「みんなみたいにしなさい」
つい無意識に使ってしまいがちな言葉に、作者は問いをかけ続ける。
*
読み手が妹の羽衣子の側に属するのか、あるいは道の側の人間であるかによって読後感は違ってくるのかもしれない。
私はどちらかと言えば道の側の人間だ。しかも「特別なしるし」をもたずに生まれてしまった道だ。「ふつう」を強要されても、その「ふつう」が難しすぎると困惑する道の気持ちに共感するし、「分かるのが当たり前でしょ」と自分の視点を押し付ける羽衣子の在り方に、正直苛立つ場面も多かった。
けれど一方で、「自分だけの特別なしるしが欲しい」と焦る羽衣子の痛みも自分の事のように感じるのだ。
(特別な何かがあれば、こんな私でも生きていても良いでしょう?
みんなと同じにできない私だけれど、特別な何かを差し出す事ができるな ら、ここに居ることを許してくれるでしょう?)
私が心の中で抱いていた痛みが、「ふつう」代表であるはずの羽衣子の焦りと共鳴する。
── まったく違う他人であるはずなのに、そこにある痛みは同じような形をしている。私たちは違うけれど似ていて、違っているというその境界線はいったいどこにあるのだろうか。
最初のうちは自己主張が強くて押しつけがましく、傷つく事などないように見えていた羽衣子が、物語が進むにつれて違う一面を見せてくる。
恋人との関係に傷つき、骨壺を求めて訪れた客の気持ちを推し量る事が出来ずに迷い、自分に自信を失って立ち止まるそのたびに、「ふつう」の側だからといって何の悩みもなく人生を謳歌できるわけではない事が分かってくる。
兄である道も、今まで距離を置いて「分かり合えない」と境界を引いてきた羽衣子や工房に訪れる人々と関わる事で、少しずつその「似ている部分」へと目を開いていく。
似ているけれども同じではない。
ぼくが「みんな」とひとかたまりで見上げておそれている人びともまた、ひとりひとり違う人間なのだ。
……P42.道
「ふつうの人々」と恐れていたその人にも、個性があり、心があり、同じような痛みを抱えて生きている事に気付いた道の独白。
そうだ。私たちは誰かと生きていくとき、決して「おおぜい対ひとり」で進むわけではない。
いつだって誰かと繋がるのは「ひとり」と「ひとり」。
ならば思えないだろうか。目の前のこの人の中にも、自分と同じような痛みがあるのかもしれないと。自分と似たような願いを抱えているのかもしれないと。
さて、私はどうだろう。
ふつうでない側だと自分を主張する時、「どうせあちら側の人には分かってもらえない」と、最初からあきらめてはいないか。
相手をまとめて大きな船に乗せて、ひとりの人として向き合う事から、逃げようとはしていないか。
私たちは決して、同じにはなり得ない。全てを分かり合う事はできない。
けれどきっと、共に在ることはできる。
大きな船を降りて、「わたし」と「わたし」で進むのならば。同じ方向へと舳先を向けて、人生と言う海を進む旅人同士であるならば。
* * *
ここに上げ切らないくらい、心に響く言葉が詰め込まれた一冊だった。誰かとの関係に悩むとき、分かってもらえないと嘆きたくなった時、私はまた、この物語を手に取るだろう。
「羽衣子にとっての『特別』とか『ふつう』は、ただ一人の特別な人間と、おなじようなそのた大勢の人ってことなんかもしれん。
けどぼくにとってはひとりひとりが違う状態が『ふつう』なんや。羽衣子はこの世にひとりしかおらんのやから、どこにでもおるわけがない。
……P118. 道
羽衣子の世界へのまなざしが変わり始める、この道の言葉が好きだ。
私たちはひとりひとり違っていて、そのままの存在でひとりひとりが特別な「私」だ。
お互いにそんな風に「ふつうであり、特別である」と認め合えおうとすることが、きっとスタートラインだなのだと思える。
「みんな」という幻の大きな船をおりて「わたし」という小さな船の棹を取る。「わたし」と「わたし」、共に進んでいくために。
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