自己肯定感なんて、追い求めなくて良いからさ。
この数年、散々、我ながら本当によくハマったと自画自賛したいくらい、
自己肯定感の沼地をさまよった。
コーチングだとか
引き寄せだとか
嫌われる勇気だとか
愛される覚悟とか
自分の気持ちを優先するとか
アレとかこれとか、
ああもう、書き切れないや。
とにかくそういうの一杯やって、の結論。
自己肯定感って、別に高くても低くても、どっちでも良くない?
自己肯定感を上げなきゃ!って
色々な方法を試すほど、苦しくなる部分ってない?
思ってもない感謝を毎日10個、無理やりひねり出すとか。
一日3つ、出来た事を自分で褒めるとかさ。
試してみた最初こそ、テンションが上がったりポジティブになった気がするけど、そこから更に続けていくほど、自分の自己肯定感の低さが浮き彫りになる感じがして、苦しみが深くなるんだよね。
他の人はこれで豊かな気持ちが感じられてるのに、どうして私はダメなんだろう
ああ、やっぱり私、どこかおかしいのかな。
私なんかが自己肯定感を持とうなんて、おこがましい望みで、自己否定の泥にまみれて地べたを這いずり回ってる方がお似合いなんじゃないの?
……こんな風に自己否定がつのるばかりだった。
その頃は、ノートを書く事すら苦しかった。
素直な心で感謝できない私、言われたことを素直に出来ない私、ノートで自分を明らめることを続けられない私、
思考は自分がダメな理由を次から次へと見つけ出して私を責める。
これで自己肯定感が上がる訳、ない。
何かを付け加えようとする行為は、「自分は持っていない」という前提を強化するだけ
それでもグダグダとノートを書き続け、自分のしょうもない自分責めも吐き出し続けて数年。ここ最近になって、ようやくわかった。
「無い」から出発した願いは、何を得ても「無い」にしか行きつかない。
もうこれは、脳が世界を認知する仕組みがそうなっているからだし、
この世界が有限の世界である以上、必然だったりする。
「自分自身に何か(自信・美しさ・収入etc.)を付け加えたい」という思考は、「なぜなら私は今それを持っていないから」という前提の上に立っている。ということは、その前提で世界を認識してしまうということ。
だから、望むものを得たとしても、それは”不足した自分に付け足された外側のもの”、つまり「いつか失われるかもしれないもの」。
そして失ってしまえば、自分は元の「持っていない自分」に戻ってしまうんだよね。
この構造は「自己肯定感」についても同じ事で、
あたかも自己肯定感を得る事が人生を幸福に生きる秘訣のように思いこんでいたけれど、
何のことはない「得た事で上がる価値は、失えば下がる」この枠組みの中かでのアップダウンゲームをしていただけって事なのだ。
だから、自己肯定感を得ることで自信満々の私になって、他人に思ったことを言えるようになって、遠慮しすぎて自分を傷つける事無く、幸せに毎日を生きられる私には、………なれない。
なれないんだな、残念ながら。
これが自己肯定感の沼に100万円近くのお金と数年の時間をぶちこんだ、私の現在の結論。
じゃあどうしたら、幸せに生きられるんだろう?
じゃあどうしたら、だよね。
小さいころに親から徹底的に否定されてきて、
自分で自分を認める事も、自分を褒める事も嘘くさく感じてできなくて、
いつでも自分のせいで周りが不愉快な思いをしてる気がする救いようのない私、は幸せに生きられないんだろうか。
その問いに対しては、
「じゃあ幸せって何?」その問いを返しておきたい。
これは私がノートをぐるぐる書き続け、最終的に至った問いでもある。
自己肯定感が低い自分を変えようとしていた時、
私が求めていたのは「誰からも傷つけられない」「失敗して馬鹿にされない」「誰からも嫌われない」「みんなから認められる」そんな世界だった。
うん。
それはどんな揺りかごだって話。
そんな場所は地球上のどこにもない、よ。
幸せって、傷つかないで生きることだろうか。
悲しみ一つ感じないまま、生きることだろうか。
自分と全く同じ意見の人に囲まれたまま、生きることだろうか。
やりたいことが全て、思う通りに叶うことだろうか。
悲しみも苦しみも感じずに生きていく人生と、
悲しみや苦しみを感じることがあっても、喜びや楽しみもまたあるのだと、明日を向ける人生と、
いったいどちらが、幸せなのだろうか。
その問いを、どうか日々の自分へ向けて欲しい。
「どうしたら幸せに生きられるのか」ではなくて。
「私はどう生きようか」それだけなんだ。
そして選んだ自分の生き方を、「幸せだと決めるのかどうか」なんだ。
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