見出し画像

「相手にも理由があるんだし」なんて、自分を説得しようとしてない?

「いやいやいや、相手がああいう言動をするのにも理由があるんだろうし」⁡(まあ私にも悪いところがあったから、お互い様だよね、と続く)とか

「あの人はああいう人なんだからさ、こっちが大人になって相手にしないのが一番だよ」とか

「ああいう人に振り回されないくらい、広い心の持ち主になりたい」とか

自分に言い聞かせたりしてませんか?


⁡自分を一生懸命説得して、
⁡その不快な感情を次は感じなくてすむように、
自分の「感じ方」を変えようとしてませんか?

わたしは、してましたガッツリと。
今の自分の感性を、全く別のものに作り変えようとしてました。

⁡そうやって
「自分を変えよう、自分じゃない自分になろう」としたことこそが、長く心を拗らせる原因だったんだなあ……と、今になって思います。


だってさ。

そう感じてしまうという事は。相手の言葉にカチンと来てしまうという事は、相手の言動に一々反応してしまうという事は、そこに何かしら自分にとっての反応の種があるわけで。

その反応の種=自分の本質を変えてしまえって言うそれって、自分で自分の心の一部を殺すのと一緒じゃない?


その道の先に、自分が自分に生まれて良かったと思えるような自己信頼って、生まれようが無いよね。

* *

自分の感性を変えてしまおうとするより、自分がどうしてそんなに反応するのか徹底的に自分に聞いた方が良い。
心からそう思う。これは、長く自分迷子を拗らせた経験から。


カチンとしたその反応は、

その人に見捨てられたら居場所が無くなると感じてるとか
能力を正当に評価されてないと感じてるとか
喜ばれたり認められる行動をし続けないと自分は見捨てられると感じてるとか

そんなところから生まれていて。

更にその気持ちを丁寧に聞いていくと、


本当は、

今の自分のままで周囲に受け入れられるようになりたいとか
安心して毎日を過ごせるようになりたいとか
自分を偽らずに、もっと自分を役立てて喜びを感じたいとか

そんなちっぽけで、
でも切実な願いが眠っている。


その小さな奥底の願いを叶えたくて、でも叶えられないとおもう心の傷が、だれかの何気ない言動に反応して「カチン」と音を立てている。

本当に欲しいのは、そのカチンを解消した先なのだ。
けっして、何も感じない自分になりたいわけではないはずなのだ。

*

⁡内観や自己対話を通じて、事実と幻を見分けられるようになっても、
自分の感性の器を変えようとするうちは、心の底から「私は生きているだけで価値がある」と自分を受容する事はできないなって思う。


私はこういう器で生まれたんだ。
これが私の感性なんだ。

そう諦めて、降参して、
小さな事で一々傷つくほど、自分であることに安心したいのだと願っている自分を認めて、

ようやく、
「私はどうしたい?」
「どんな行動を選ぶ私でありたい?」
って自分に聞いてあげられるようになる。
その願いに沿った行動を起こせるようになる。


だから。
大切なのは、まずは自分の器を認めること。

ノートに自分が感じたままを書いてみる。悪口でも感謝でも罵詈雑言でも。カチンときた相手への罵倒でも良いし、そんな自分を責める言葉でも良い。

その言葉の奥に、変えようのない自分がいる。
一生共に生きていく「わたしという器」「わたしという感性」がその言葉の中に潜んでいる。

「いやいやいやそうは言っても」
なんて自分の心を説得している暇があったらさ、トイレの中で叫んだ方がずっといい。

「ちくしょう私の事を馬鹿にするな。私は馬鹿にされていいようなちっぽけな存在じゃないんだぞ」って。

それほどまでに本当は、自分自身を大切に思っているんだから、さ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?