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松谷みよ子と家畜人ヤプーと、愛しのベティと火の鳥と。

父のかつての部下だった人と、飲み会で同席になった。

小学生のころからずっと家の中が本で埋め尽くされ、半分病人となった今もひたすら本を読みつづけていると言ったら、ひどく驚かれた。
「そんな人だとはちっとも思わなかった」
「すごく意外です」だそうだ。

更に休日にはDIYをして渡り廊下を作ったり押入れを改造してスライド式の本棚にしていたと言ったら「私の知っている〇〇さんではないです」とまで言われてしまった。


なるほど、人というのは外側から見たのでは分からないものだ。
職場でしか関わらない相手であればなおの事、見せている顔と言うのはごくごく限られた部分でしかなかったのだろう。


子供の自己肯定感を育むどころか、子供のいたずらに機嫌を損ねては手を上げ、結果が出せない事や努力しない事を正論で責めあげて逃げ道をふさぎ、家族の自己肯定感をすり減らして崩壊させるような人だった。

否。そういう人だと、つい最近までずっと思っていた。

けれど、実はそれは父の一面でしかなく、心の底にあったのはまた別の想いだったのだろうとこの数年ですっかりイメージが変わった。
今や私にとって、父は怖い人ではない。私を支配する人でもなく、ただ「父という役割をもって私の人生に関わった人」だ。父の注ぐ愛情の形は、子供の私にとっては大変に分かりづらく、受け取るのに五十年近くの時間がかかってしまったが、ようやく、あれも愛だったのだろうと受け入れる事ができるようになった気がする。

ただつまびらかに全てを置く。分かれなどと言い訳をせずに。

ここでタイトルの話に戻ると、
松谷みよ子(全集2種類)、家畜人ヤプー、愛しのベティ(ちょっとタイトルあやふや)、火の鳥。
これらは全て、小学生だった私の手の届くところにあった本たちだ。


思いついた中で極端だなと思ったものだけを上げてみたが、実際、児童文学から大人向けの少々問題(笑)のある本まで、我が家にはあらゆるジャンルの本が隠されもせず置かれていた。
万葉集や古今和歌集の隙間に男性向けのエロ漫画がつっこまれ、父が祖父から与えられた古い少年小説と隣り合わせに、子供心にこれはちょっと早すぎるんじゃないかというエロシーンのあるミステリが並んでいたりもした。


この本棚の在り方こそが、父から私たち子供への愛の在り様であり、父なりの世界との向かい合い方だったのだろうと、そんな風に思うのだ。


* *

小学生時代から大人になる今まで、「読んではいけない本」は我が家には無かった。そして読んではいけない本が無いのと同じく、「読まなければならない本」もなかった。

全てが手に取れる場所に置かれ、何を読み何を感じるのかがちゃんと子供の取捨選択に任されていた。そして、一度だって「この本を読んでどう思った?」と聞かれた事は無かった。

親になった今、同じことを娘に対してしてやれるかと考えたが、今の私にはまだ少しばかり難しい。やはり情報を取捨選択して与えたくなる。例え、娘が既に私の目の届かない情報を勝手に得ているのだとしても。

幼い私にとって世界は、実家にあった本と同じくらい混沌に満ちた場所だった。正しく見えるものは反対から見れば正しくなく、優しくない人は優しく、暴力に見えるものが愛であったりする世界。
けれどそのような理不尽で矛盾に満ちた世界の一端を、書物を通して既に知っていたからこそ私は、理不尽な世界を生き抜いてこれたと思うのだ。

最近、とみに思う。残酷さや不公平さを取り払った上っ面だけの昔話、正しさや優しさだけの物語は決して人を救いはしないだろうと。そういう薄くてきれいな物語は、心の強さを育んではくれない。世界は理不尽で矛盾に満ちている。存在する人の数だけ正しさがあり、統一される事はない。

*

娯楽本から純文学まで、取捨選択せず娘の手に取らせた父の本意が、本当はどこにあったのかは分からないし、今さらそれを聞きたいとも思わない。
けれど何も言わず、押し付けるでもなく、ただ手に取れる場所に選択肢を用意してくれていた事に感謝をしたい。


きっとそれで良いのだと思う。
込められた思いを知る事は、受け取った私がどう生きるかに比べれば些細な事だ。だから今日もまた私は本を読み、物語に溺れて、生きている。






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