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自分を丸ごと認めるって、無理やり〇つけする事じゃないよ。

 自己肯定感沼(と呼んでしまえ)の周辺をさまよっていると、
「自分を丸ごと愛しましょう」
「あなたはそのままで愛されていると認めましょう」
って、そんな言葉をよく目にする。

 ここが間違っているとは言わない。
 言わないけれど、でも。

 でも、そこを追求しすぎることが新たな苦しみの原因になる事があるって、ちょっと頭の片隅に置いておいて欲しいな、と思う。

まず前提として、私は過去の私、
「自分には生きている価値がない」
「自分は生きているだけで罪悪だ」と感じている人や
「でも子供を幸せにしてあげたい、そのために自分を変えたい」
と思って自己肯定感を上げるための旅に出て、何だか以前より苦しくなっていたり、他の人が上手くいっているやり方でHappyになれない自分を責めちゃってる、そんな人へ向けて基本書いている。
 だから、日々の生活で感謝の言葉を唱え、ワクワクする事へ突っ走って毎日充実して幸せに生きることができている人には、回れ右して戻ってほしい。そうやって生きられる人もいるし、それが難しい人もいるのだ。

自分を認めるって、どういうことだろう。

「自分を認める」って、ちょっとでも褒められる自分、誇れる自分、頑張った自分を探し出して、そこをぐるっと花丸で囲んで
”ほら、自分にも良いところあるじゃん、否定ばっかりしなくても良いじゃん”って、こういう事だと思いがちだ。

 だけど。
 この方法を取ると、出来なかった自分、悔しくて凹んで泣きたい自分、頑張れなくてだらだら時を過ごす自分は、永遠に切り捨てられてしまう。

 そう。
 良い事探しゲームの落とし穴がここにある。
 自分に〇をつける一方で、×も同時につけ続けている
 だから、一時的に感情は浮上するかもしれないけど、
 ある瞬間ふっと落ちる。褒める自分が見つけられなかった時や、自慢できる成果を失ってしまった時に。

 だから、もしこのnoteを読んでくれている人の中で、
感謝の言葉を唱えても、自分が出来ている部分を見つけて褒めても、全然苦しさが改善しない人がいたら、全然おかしくないから安心してほしい。

 私も同じだった。
 出来ない自分が欠陥品じゃないかと思って途方に暮れた。
 だけどまあ、今はそれなりに自分の事が嫌いではない。落ち込むことも凹むこともあるけれど、そんな自分をまあ良いかと眺める事ができる。

 思うんだよね。
 自分を認めるっていうのは、頑張りたいと思うけれど頑張れない自分、感謝しろと言われて素直に感謝できない自分、やらかして、凹んで、他人のせいにしたくなるみっともない自分も、そんな自分を変えたいと願う自分も、どちらもそのまま、「そうなんだ」って見ること。

 ”ありのままの自分を認識すること” それだけなんじゃないだろうか。

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ちょっと長いけど、
私なりに「認める」という事について、自己肯定感沼の中で自分なりに得た答えを語ってみたい。

どんな風に認めてもらえば、安心できる?

 子供の頃の気持ちに戻ってみて欲しい。
 今、あなたが小学校低学年くらいの子供だったとして、その頃、親に望んでいたのは、どんな認め方だろう?

 例えば忘れ物をして先生に怒られた。
 例えばテストの点が悪くて、お母さんにがっかりされた。

 その時、あなたがして欲しかったのは、
「次に失敗しないためにはこうしなさい」ってアドバイスだっただろうか?「そんな事くらいでくよくよしないの。次に頑張ればよいじゃない」って気持ちを切り替えさせるための言葉だろうか?

 まずは「ああ悔しかったね」「つらかったね」って、
失敗して悔しい気持ち、出来なくて悲しい気持ちを、そのまま認めてもらうことじゃなかっただろうか?
 そうやって認めてもらえば、次は自分で頑張ろうって気持ちになれたんじゃないだろうか。

 <私は私で大丈夫>という自己信頼のために必要な「自分を認める」は、この「認める」なのだ。
 できた部分だけを探し出して〇つけするのは絶対に違う。
 できなかった自分、失敗した自分も、その時の悔しい感情も、全部否定しない。ただただ、存在させてあげる。
 人は一つの感情に長くは留まれない。認めれば、マイナスの感情も終わりを迎えて今ここを生きることに戻ってこれる。


 蛇足だけど、
 ”出来たことを認める”の落とし穴がここにも見えるよね。
「でもあなた、この前の算数のテストでは100点だったじゃない」とか
「あなたはスポーツを頑張ってるんだから、そんな事気にしないの」とかの慰め方。
 これは”出来てる事・頑張ってることだけは認めてあげる”というメッセージを裏側に隠している。
 この裏メッセージにとらわれて、頑張り続ける人生を選択してきた人もいるんじゃないのかな(もれなく私がその口です)

 だから良い事だけを見ていく方法は、やっぱりどこかで苦しさを生んでしまうんだと思う。

「認める」ってそもそもどういう事よ?

認める、を辞書で引いてみるとね。

みと‐める【認める】
1.目にとめる。有ることが確かだと見てとる。
 「機影を―」
2.見て判断する。
 「彼を犯人と―」

認めるというのは、見ること。
ある事が確かだとみて取る事。

だからね、
認める=有る事が確かだと見て取る。
これを採用しておけば良いんだよ。

自分のダメな部分、へこんだ部分、そこを直したいと思っている気持ち、
完璧な私になってもっと愛されたい、幸せになりたいと願っているその自分自身の在り方を、ただそのまま「そうなんだ」と認識する、それだけで私たちは自分で自分を認めている事になるのだ。


少なくとも、この在り方を選択する事が、私には一番有効だった。


私の場合はノートを使って、だけれど
自分が日々感じている気持ち、みじめさとか、寂しさとか、その奥に隠れていた悲しさとか、私を認めてくれない世界への怒りとか、
ずっと押し殺して認めてこなかった気持ちを全部書き出した。
どんなに黒い気持ちでも誤魔化さずに明らかにする。これが私なのだ、とじっくりと感じてあげる。

もちろん一月二月では変わらなかったけれど、
いつの間にか、自己肯定感の低い自分であることが問題では無くなった。

自己肯定感が高かろうと低かろうと、私は生きていくのだ、と思えるようになった。


だからもし、今、感謝なんて出来ないよ!
自分の良いところなんて見つけらんないよ!とかやさぐれている人がいたら、そのやさぐれている自分も含めて、ただ明らかに見ればそれだけで良いよ、と言いたい。

その先は?と聞かれたら
「そのまま、やりたい事をやってみれば良いんだよ」って答えるだろうか。

自分をジャッジせずに淡々と見られるようになると、
複雑に見えていた世界がだんだんとシンプルになってくる。

そしたら、ただやりたいと思った事をやれば良い。

失敗しても、成功しても、得ても失っても、
どんな感情の波が訪れても、全部の私で生きていけば良いと、そう思えるようになっているから。
というか、私たちにできる事って、それだけなんだ。

まあそういう訳で、自分の全部を認めるってね、
裏表ひっくるめてただ存在させてあげるって事なんだ。
そこを、無理にポジティブ面だけ見ようとするから苦しくなるんだよ、って
合わないポジティブ思考で苦しくなってる人には、そう伝えたい。



‥‥あ、
タイトル画像の「愛する」について入れられなかった(汗)

「愛する」の定義もね、シンプルにすると良いよ!(無理やり)

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