考えることと感じることは別という性質が問題を複雑にする

大抵の人は自分のことを理性的で合理的だと考えていると思う、
実際それは間違いではないと思う。

きちんと考える余裕があって冷静に物事を認識することができれば、
大抵の場合により良く最善な答えを導き出せる。

人間の脳にはそういう機能が備わっていると思います。

ですが、1つだけ勘違いされていることがあるように思う、
確かに人は誰であれ意識的により良く物事を考えられますが、
感じることはできないということです。

例えば人間は社会という集団に所属しなければ生きていけない、
誰であれ社会という枠組みから恩恵を得ている。

とは言え社会とは集団であるが故に包括的で抽象的、
客観的な枠組みであるが故にそこに所属する全ての人にとって、
必ずしもより良いものとなるわけではない。

どれだけきちんと考え抜いても部分的にであれ抑圧される側面がある、
それでも個人として世界に放り出されるより社会に所属したほうが、
多くの利益を得ることができるのは間違いない。

ですから合理的に考えるのなら自分の利己心をひたすら追求するより、
自分と社会のバランスをきちんと取っていくほうが利益が大きくなる。

考えたうえでこのことに否と言える人はそんなにいないと思う、
しかし現実には個人の短期的、衝動的な利益を追求し、
長期的に見れば社会に大きなダメージを与えるような状況。

社会的ジレンマと呼ばれる状態がしばしば表れる。

合理的に、理性的に考えれば社会の安定は自分の利益にもつながるのに、
そのために個人的な利益のみを追求することを止められない。

そういう状態がなぜ起こるのかと考えれば先にお話したように、
考えることがそのまま感じられることと同じではないから。

合理的に考えればそれがより良い選択だと考えられたとしても、
それがより良い選択だと感じられるかは別の問題ということ。

人は意識と無意識、2つの思考傾向を持つからです。

理性的、合理的な機能は意識にあり考えるとは意識を生む脳によるもの、
しかし意識には何かを感じる、感情を生み出す機能はない。

感情は無意識によって生み出されるものです。

実際にはそもそも意識的に考えるということはできない、
能動的に行っていると思っている思考も実際には無意識によるものを、
ただ結果として眺めているに過ぎないという説もある。

意識的な思考はあくまでも無意識的に考えた結果を後追いして、
それを認識し基準として考えている可能性もあるということ。

何にせよ言えるのは、つまり人間は考えて感じているのではなく、
意識的に考えることと無意識的に感じることを脳内で別々に行って、
それを後に統合して意思決定を行っていくということです。

この統合という過程も実際には意識と無意識の主導権争いに近い、
意見が別れればどちらの意見を自らの意見としてより重視するか、
相争うというイメージが近いと考えてます。

故に理性的、合理的に良いと考えたことを必ずしも良いと感じ、
優先して言動に反映させられるわけではない。

それが先にお話した社会的ジレンマなどの混乱を生む。

あるいは考えたことと現実に起こしたことの差異に心が揺らぎ、
時に罪悪感や自己否定などの精神的な負荷を生みます。

このことにまず自覚的になるのは大事に思う。

大抵の人は自分は自分であり1つの意志によって動くと考えている、
だから時に考えてもいないと思っていた衝動的な言動が表れると、
それを否定したり、あるいはその事実に苦しんだりする。

苦しみから逃れるために意識的な思考を放棄し自らの利益を追求し、
社会との不和を起こす方向に大きく傾いてしまうこともある。

しかし実際には、人間は1つの意志で動いているわけではない、
脳にはいくつもの機能があってそれらが複雑に絡み合っている、
それらをできるだけ包括すると意識と無意識という2つに分けられる。

2つの人格とでも呼べるものが自覚できないところで衝突し、
日々、意思決定を行い言動を生み現実を生きていくのです。

故に、人はその本質からしてすでに揺らいでいるということを、
まずきちんと自覚することによってはじめて能動的に、
自分自身をコントロールしていくためのスタート地点に立てる。

考えていることと感じることは別であるとしたうえで、
何を選択し自らの軸とするかを真剣に考えることができます。

このことは誰であれまず意識してみるのが大事ではないかと、
そう思ったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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