あらゆる活動に不可欠なエネルギーの基礎知識

どんな活動にも何かしらエネルギーが必要であることを、
漠然とではあれど誰であれ実感しているでしょう。

体を動かすには各種栄養素が必要になりますし、
個人が動くには精神的なやる気等のエネルギーが必要、
社会を動かすには思想(概念)的なエネルギーが必要になる。

こうして考えてみるとエネルギーとは明確なように見えて漠然としている、
だけど確かに必要で使っている感覚はありだけどはっきりと捉えがたい。

そんな、なんとも言えないものであるように思えますし、
逆を言えばもう少しエネルギーに対する解像度を上げれば、
よりうまく活用できるようになるのではないかと思う。

ここではそんなエネルギーの正体について現時点での考えをまとめ、
引いては人生にどのように活かしていくのかについて、
思うところをお話していこうと思います。


エネルギーを考えるうえでの前提となる枠組み


では、エネルギーを考えるうえで前提となる枠組みについて話します。

まずエネルギー自体は無限にあるということは知っておくと良いでしょう。

この世界のあらゆる存在がその動きを止めない限りエネルギーは常にある、
より正確に言えば常に循環し続けることであらゆる存在を巡り続ける。

しかし、エネルギーを受けるための受け皿としての器というものは、
全ての性質のエネルギーを受け止められるわけでもなければ、
量にもそれぞれに限界がありまた時間と共に劣化します。

例えば人間であれば栄養として吸収できるものとそうでないものがあり、
中には接種すれば毒となり最悪死に至るものもありますよね。

そうでなくとも時間と共に消化器官は衰えて接種できる量も少なくなり、
いずれ活動に必要なエネルギーと接種できるエネルギーのバランスが崩れる。

端的に言えば老衰による死を迎えることになります。

とは言え、死ぬまでに人間はエネルギーを利用して子供を作り、
次世代に種を残していくことができる。

次世代の人間が同じようにエネルギーを受け種を残し劣化し、
最後には死を迎えだけどまた次世代はと器は生まれ続けます。

死ぬことによって人間の体というエネルギーの器は機能しなくなる、
だけどエネルギーによって何らかの受け皿は生まれ続け、
エネルギー自体は常に世界を巡っていることに変わりはない。

同じようにあらゆる器は時間とともに劣化していずれ崩れ去りますが、
それでもエネルギーは巡るし器は生まれ続けるのです。

そして、この有限の器というエネルギーの受け皿を中心として、
集注と発散という基本性質があることを理解することが重要。

これは単純に不足すれば集め満ち溢れれば発散したくなるということ。

また食べ物で例えますが人間が活動するためにはエネルギーが必要で、
もし動くために必要なエネルギーが枯渇してくれば、
それを基本的には食物から接種する必要がある。

必要であるだけの食事であれば美味しくいただけてエネルギーも満ちる、
ですが食べ過ぎれば逆に体に不調をきたすことになるでしょうし、
最悪吐き気を催して物理的に発散するはめになるでしょう。

こんな感じで受け皿となる器の強度や大きさによって、
受け蓄えられるエネルギーに存在ごとの差はあるものの、
足りないなら集める方向に動き満ちれば自然と発散する。

そのサイクルをあらゆる存在が繰り返すことで、
エネルギーは様々なものに形を変えて世界を巡り続ける、
延々と何かしらの働きを生み出し続けるわけですね。

なお、エネルギーとは食べ物などの物質的なものから、
感情などの精神的なもの、思想などの概念的なものなど。

何らかの実質的、精神的な『動き』を生み出し、
現実に影響を与えるあらゆるものを指します。

この動きというのが重要というかようはエネルギーとは、
端的に言えば何かが動いているということなんだと考えられる。

生物が動いている、自然が動いている、機械が動いている、
動いているならそこには何かしらのエネルギーがある。

逆を言えば何かしらの動きがある内はこの世界のエネルギーは無限である、
常に動きに乗って器の間を流れ循環し続けるのです。

その前提を踏まえて人間に影響を与えるエネルギーは、
大きく個人と場のエネルギーの動き方に分けられます。

個人としてのエネルギーと場としてのエネルギー


個人としてのエネルギー


では、個人としてのエネルギーについてお話していきますが、
まず知っておいてほしいのは完全に個人でエネルギーを生み出す術はない。

先にお話したようにエネルギーには必ず集注と発散の性質があり、
どうあっても外から得なければ集められないエネルギーがある。

例えば度々お話した食べるということ。

体を動かすためには様々なエネルギー源を接種する必要があり、
それは自然にあるものから受け取ることでしか満たせない。

もっと言えば加工品であれば加工する人のエネルギーが、
料理であれば料理する人のエネルギーが必ずあり、
それを受け取っているのです。

ようは、厳密には個人が個人としてエネルギーの全てを賄うすべはない、
しかし人間は進化の過程で脳を発達させ意識というものを獲得した。

意識は客観的な視点を持つことを可能にし世界を俯瞰することができる、
それが自我、アイデンティティ、自分と他者という概念を生み出し、
精神的に完全に周囲から断絶し個としてあることを可能にしたのです。

これは言葉で説明されてもいまいち分かりづらいかと思いますが、
まず一本の大きな川を想像してみてください。

流れる水はエネルギーの流れで全ての存在はその川と同化し、
エネルギーの循環の中で自らが活動するために必要な分を、
自身の中に集めたり発散したりしている。

人間も例外なく体や動物的な本能である無意識はこの川の流れの中にある、
そして流れの中にいるうちは自分という感覚を得ることはなかった。

しかし意識という精神的なものがこの川を上から眺めることを可能にし、
眺めてみるとそこに自分と自分以外の存在があるということが見て取れる。

そうして人間の体とか本能など川の中にある自然的な部分がある一方で、
それを客観的に眺める意識というものが自己と自他を区切るようになった。

ここで重要なのはこの体とか本能というのは無意識、
意識できないところで働くものであるために、
意識は川の中にあるということを自然には自覚できないという点。

そのため実質的にエネルギーの循環に身を置きエネルギーを受けている、
言い換えれば与えられていながら意識できる精神的な自覚としては、
個人としてあらゆるものを自分でまかなっているというあり方があり得る。

それが、周囲との精神的な断絶を生み個としてのエネルギーを定義する。

とは言えいくら精神的に個人というエネルギーを定義しても、
それは結局のところ自分の外から得るものであることに変わりはなく、
するとどうなるかと言えば大きく分けると3つの段階に分かれます。

まず、最初の段階として他から奪うだけ奪って自分のために消費し、
一切エネルギーを循環させないという消費と収奪の段階。

この段階の場合、誰でもある程度までであれば一方的にエネルギーを奪い、
それを自分のために消費し枯渇すればまた奪いを繰り返すことができる。

しかし、奪うと当然ですが奪われた側は衰弱していくことになるので、
防衛のために奪われまいと抵抗するようになっていきます。

それでもなお奪おうとすれば奪うためにエネルギーを消費することになり、
ある時点で奪うためのエネルギーが奪うことで得たエネルギーを上回り、
逆に自身が衰弱していくことになっていずれ破綻する。

例えば自分勝手な人がわがままばかり言って周囲を振り回していたら、
いずれ誰もいなくなり何もできなくなって全てを失うみたいなのは、
個人として周囲からエネルギーを奪うだけであるからです。

なお、自然から外れた社会を築いた人間の無意識は何らかの要因で、
人間性(意識性)を学ばなかった場合は基本、
この消費と収奪の法則で動きます。

ですが、大抵の人は幼少期にはこういう奪うだけ、自分が得るだけでは、
前へ進めなくなるということを社会から教えられ、
漠然とですが理解することができる。

理解し次の段階である投資というあり方をある程度であれ身につけます。

投資、つぎ込んだものより多くのものを得る使い方をすることで、
徐々に増やしていくというエネルギーの動かし方です。

一時的には消費するんだけど未来においてそれ以上のものを得るために、
どうすれば良いのかということを考えて実行する。

例えば学ぶ、スキルを身につけるというのも自分の人生というエネルギー、
その一部を投資することで未来により良い状況を作り出し、
費やしたものより多くのリターンを得ようとする動かし方だと言えます。

これが人間の意識的な部分、未来を想像し創造するという能力によって、
無意識の傾向を制御することで前へと進む人間特有のエネルギーの動き。

そして、最後に自身が完全に満たされる実感を得てそれ以降、
溢れ出るものを自然と与え(発散)ようと思えるようになっていくことで、
本当の意味で何かに対してエネルギーを注ぎ込むということが行える。

そうすると、与えられた方も満たされるのでそれが自然と発散される、
発散されたものが返ってきてまた満ちて自然と発散されまたと、
集めなくても循環し続けるエネルギーの流れを自身を軸に作り出せます。

この段階にまで到れば局所的でありかつ外圧で崩れる可能性もありますが、
精神的なエネルギーの完全な循環の恩恵を個人として実現可能です。

とは言え、これは理想論に近く到達するのは難しい。

日本のようにきちんと整備された社会システムがある環境であれば、
普通に生きていければ大抵の人は投資の段階まで到達し、
よほど環境等に恵まれない場合に消費と収奪の段階から抜け出せない。

個人としてのエネルギーのあり方、流れ、動き方は、
基本このようなものになると考えてください。


場としてのエネルギー


次に場のエネルギーのあり方について。

人間は精神的に個人としてのエネルギーのあり方が成立し得る、
しかし実質的には必ず何かからエネルギーを与えられる、
受け取っているないしは奪っている。

つまり、場の影響を必ず受けているということです。

場とは複数の存在が意図しているか否かに関係なく、
何かしらのエネルギーを循環させている状態のこと。

人間で言えば最低でも2人から場は成立する。

例えばある人、Aさんがマイナスのエネルギーを発散させ、
Bさんがそれを受けて怒りなどネガティブなエネルギー溜め込む。

器が受けきれる以上まで溜まるとそれを発散するようになり、
それを受けたAさんが今度はマイナスのエネルギーを溜めて、
また発散してというマイナスの循環を生み出す。

恋人、夫婦関係など閉じた関係が悪化するとこういう状況になりやすい、
見たことある、あるいは経験したことがある人も多いでしょう。

特に夫婦関係は法律的な柵もあるためそう簡単に断ち切ることができず、
長期にわたりマイナスのエネルギーを循環させ言動に負の影響を与え、
外にまでマイナスな影響を与えていく(発散していく)。

そんな状況を生みやすいのですね。

もちろん、その逆でお互いがお互いに必要なプラスのエネルギーを注ぎ、
どんどんより良い方向に進んでいくことも可能です。

そんな場としての基本性質はまずここまでお話してきた循環がより働く、
特に強固な場というのは良くも悪くもエネルギーを循環させ続け、
そこに身を置いた時に関係を断ち切るのが難しくなる。

先の夫婦関係という場にしても法律とか結婚という概念、
他者から受けた祝福や社会的な体裁などの意識的な価値基準、
費やしたものを無駄にし難いサンクコストバイアスのような無意識の傾向。

様々なエネルギーが複合的に影響し循環することで、
簡単に離婚し別れようという決断を下しづらくなる。

マイナスの影響の方が大きいと薄々は自覚していても、
その場から離れられないという状況があり得るわけです。

良いエネルギーも同じように結びつき循環していくわけですが、
次の性質としてあらゆる場のエネルギーは現時点でどれだけ良質でも、
適切な手入れをしない限り徐々に濁り劣化していく。

良い場というのは中に身を置く場合も外から眺める場合も甘い蜜であり、
中にいる場合は自然と離れたくない、そこから何かを得たいと思う、
外にいる場合は中に入りたい、利用したいという思いを引き寄せる。

ようは、邪念を生み引き寄せるものでもあるということ。

ちなみにエネルギー的な邪念とは動きとは真逆の性質、
より楽な状態などで『停滞』したいという欲求です。

ですから、場は場を守りたいという意志を共有できることが不可欠、
守るために常に進歩していこう、変わっていこう、成長していこう、
そんな思いが満ち溢れていることがまず必要になる。

また外からの邪念を弾く何らかの防御機構を備えていることが大事。

それらの条件を満たせなくなると内側から徐々に淀んでいき、
エネルギーは停滞し循環が止まってしまい大抵は自壊する。

しかし、止まってしまうのだけど先に話したように一度構築された場、
そこに身を置く存在のエネルギーの繋がりが断ち切られない場合がある。

するとどうなるかと言えばその場を維持するためのエネルギーを、
外から奪ってまかなおうとするようになります。

厄介なのは場というのは巨大な器でもあるために吸収するエネルギー量も、
それによって生まれる動きも大きくなりがちだということです。

それがマイナスな方向に傾いてる場合は当然ながら、
周囲から莫大なエネルギーを奪っていくことになるし、
その一挙手一投足の負の影響もまた大きくなる。

行き着くところまで行くと奪える範囲のもの全てを奪い衰退させ、
奪えるものが無くなって場自体も自壊し後には何も残らない。

そんな状況に至ってしまうのですね。

そして最後の基本性質、場の受けられるエネルギー量と生み出す動きは、
どれだけ場の中で相補的な循環が起こっているかに左右されるということ。

相補的、つまり内に流れるエネルギーが互いに影響を与え合い、
常に何らかの動きを生み出し続けることが大事であるということです。

例えばですが同じ価値観の人がいくら集まったとしても、
楽ではあっても何か新しいものが生まれたりはしないじゃないですか。

企業とかでも同じような人が集まるなあなあな場になってしまうと、
基本的には同じところで停滞し大抵は周囲の変化等についていけず、
自然と崩壊が始まり潰れていくでしょう。

大きな企業とかだと先にお話したように器が大きいので、
周囲から奪ったエネルギーで動き続けることもあるんですけど、
それはエネルギーの循環的に言えば害でしかない。

自身以外のあらゆるものを衰退さえいずれ自身も瓦解していくことになる。

逆にエネルギー的に性質の違う人達がうまく噛み合って場を形成すると、
お互いがお互いに影響を与え合うことでエネルギーが循環し、
常に何らかの動きを生み出していくことができる。

故に、昔から異なるものが交わることで何かを生むという思想は多く、
人間は存在自体がそれを体現したものだとも言える。

男性性と女性性、男と女がつながることで新たな命が生まれる、
父性と母性、2つの価値観が交わることで命は人間となる。

父性とは論理や倫理道徳、規則や規範などようは意識的な側面であり、
母性とは無条件の愛情や豊かな感情の動きなど無意識的な側面。

人間は生まれ成長することで意識と無意識を持つことから逃れられない、
ですからそれら2つのものを幼い頃からバランス良くきちんと学ぶことで、
両者の性質を制御し他の動物にはない人間性を発揮することができる。

理性と本能、進歩と慈悲、過去と未来、相反するあらゆる性質を統合し、
個として両者のバランスを取り主に精神的なエネルギーを生み出し、
前へと進んでいくことができる生き物なのですね。

そのため、人間は精神的エネルギーに限って言えば個人で循環を起こせる、
場を生み出すことが可能な生き物だと言えます。

逆に意識が弱くなり無意識的、動物的な本能に流されるようになる、
または意識に偏りすぎて無意識的な側面をないがしろにした時、
停滞し外から精神的なエネルギーを引っ張ってくる必要に迫られる。

そういう時、身を置く場に自身とは違う性質のエネルギーがあれば、
それを受けて動きが生まれその動きが他者にとってのエネルギーとなり、
常に循環することで様々なことを成していけるようになります。

とは言え人間に限らずあらゆるものには終りがあり、
時間とともにエネルギーを生み出す力も受け入れる器も劣化し、
最後には完全に停滞し終わりを迎えることは避けられない。

冒頭でお話したようにエネルギーは無限ですが器は有限であり、
しかし精神的な面において必要な全ての性質を備えた場を形成すれば、
精神的エネルギーは無限に循環し活力となる状態があり得るのは確か。

また、生み出された精神性が後に何かに影響を与えることもある、
古代ギリシャの哲学が現代の西欧思想の根幹であり離れがたいように、
精神性は誰かの心を動かす限り永遠のエネルギーであり続けるのです。

と、話が逸れましたがつまり相補的なエネルギーが集まる場を形成すれば、
少なくとも人間が動くためのエネルギーの1つである精神的なものを、
半永久的に生み出すことも不可能ではないということ。

少なくとも単一的なものであるより遥かに大きな動きを生み出せるのです。

と話が散らかってきたので最後にまとめると、
まず場とは循環をより働かせる状態であり、
その強さは相補的な循環の度合いによる。

相補的な場である限り常に大きなエネルギーを循環させ、
動きを生み出し続けることがことができますが、
適切な手入れを怠ると徐々に停滞したいという邪念を引き寄せる。

そうすると場が淀み循環は停滞していき多くの場合自壊しますが、
ある程度の規模があると周囲に多大な悪影響を及ぼすことで、
周りごと崩壊させる方向へと進んでいくことになります。

以上のことは覚えておくと良いでしょう。

エネルギーという概念を人生に活かしていくために


エネルギーという概念について基本的なことをざっとお話しましたが、
ではこれらのことをどのように人生に活かしていけばよいのか?

まず、エネルギーとは動きであるということを常に意識してみてほしい。

肉体的にせよ精神的にせよこの世界の存在は停滞すると死ぬんですよ。

石に命がある、生きていると思う人はいないでしょうが、
それは石が外圧以外でそのあり方を変えることがないためです。

もし、何のエネルギーの影響も受けない場が永遠に続くのであれば、
石は永遠に同じ形であり続けることができる。

逆を言えば決して他のものに能動的に影響を与えることがない、
石は停滞しているが故に個としては永遠であり常に受動的であるのです。

同じように、人間も停滞すれば能動的に何ものにも影響しなくなる、
で、命あるものの停滞というのは基本的には精神的なものによる。

生きているなら肉体は動き続けるために何かを接種することになる、
命を守るという動物的な本能が働けば何かしら物質的な動きを生む。

しかし、この動物的な本能も精神的なエネルギーの一種であると言える、
何かしらの言動を生むために脳とそれによって生まれる精神が、
エネルギーという動きを生み出している。

逆を言えば言動を生むためには精神的なエネルギー、
心の動きが必要不可欠であるということです。

ですから、心が動かなくなるに従って人は徐々に言動を生まなくなる、
それは能動的に世界に干渉する力を損なっていくことはもちろん、
自身が変わるためのエネルギーをも損なっていくことを意味する。

つまり、生きながらに死んでいくのです。

生きていてもそれは動いているのではなく動かされている、
周囲のエネルギーの流れに強制的に振り回されているだけであって、
自らエネルギーを循環させ動いているわけではないのですね。

で、肉体がいずれ全ての機能、動きを停止させて終りを迎え、
以降はどうあっても動きを生み出すことがないように、
精神も一度完全に動きを止めれば外圧をもってしても動かない。

何かに影響されるには影響されるだけの火種となる動きが必要であって、
何にも影響されないのであればそれは停滞している証拠であり、
以降も動く可能性は皆無であるということになる。

とは言え完全に精神が停滞することってそうないとは思う、
大抵の場合、少なくとも命の危機とかであれば生存への執着が生まれ、
そこから連鎖的に何かしらの動きが生まれていくものでしょう。

自身の生死にすら完全に無関心となる精神的停滞はそうない、
あったとしても誰かが生かそうとしない限り自然に死んでいく。

ですから、生きている、生きていたいと思うのであれば、
少なからず精神的な動きというものはある。

大事なのはその動きをどのようなものにしたいかを定めることでしょう。

何にも、自身にすら精神的に影響を与えず、
いるかいないかもわからない存在として。

周囲に流されるままただ死にたくないという一念のみで、
時に苦しみや痛みに耐えながら最後の時まで、
後悔とIFの中にあり続けるのか。

それとも誰かにとって意味や価値がある存在としてありたいのか、
あるいは自分が自分に対してあるべき姿を定めそのようにありたいのか。

自分が最後を迎える時に結果は振るわなかったかもしれないし、
何1つ残せるものはなかったのかもしれない。

それでも、自分として何1つ恥じるべきところのない人生であったと、
できることをやりきり未練はあれど悔いは何1つない人生であったと。

そう思うことができる人生を送りたいのか。

そこを定めることができなければエネルギーは生み出せない、
というよりそこを定められるか否かが今現在における、
エネルギーのあり方の全てであると言ってもいい。

僕はどんな人も本気で何かでありたいという思いがあれば、
現状がどうであれその姿に向かって走り続けることができる、
例えそれが体現できなくても悔いのない最後を迎えられると思っている。

逆を言えば本気でそうありたいという姿がなければ人は能動的に動けない、
エネルギーを循環させるための器が育ってくれない。

ですから、まず何をおいてもそういう理想の自分、
あるいは決してなりたくない自分を規定することで、
器の原型となるものを形作らないといけないと考えてる。

問題なのはそういうあり方を定めることにもエネルギーを必要とする、
その分すらまかなえないというのであれば正直道は2つしかないと思う。

1つは外圧、外からの何かしらの影響が元で大きな動きが生まれ、
エネルギーが循環していくのを待つという道。

もう1つは先に話したようにどんどん精神的に停滞していく、
生きながら死に向かっていくという道です。

つまり、あまり使いたくない言葉なのですが自身のあり方、
未来を本気で規定できないところまでエネルギーが枯渇してしまう、
動けなくなってしまったらもう手遅れであるように思う。

少なくとも現時点で僕はそういう状態に至ってしまった場合に、
どうすれば運、よほど大きな外圧の影響を期待することなく、
確実に再びエネルギーを注ぎ込み動きを生み出すことができるのか。

その答えを持ってない。

なので、これからお話するエネルギーを活かすという考え方は、
活かせるだけの火種、エネルギーの循環を個人でもある程度、
起こせることが前提にあるということは言っておきたい。

で、現時点ですでに何かしら本気で求めるあり方があるのであれば、
大事になってくるのはまず個人として場を生み出せるようになること。

先にお話したように人間は意識と無意識という相反する2つの性質を持ち、
それらが常に混じり合うことで個としてエネルギーを循環させ、
それを動きとして表現することができる。

もちろん、それは複数の人が集まる更に相補的な場とは比べ物にならない、
だけどエネルギー循環を停滞させず動きを生み出し続けることはできる。

ようは、何かに向かってまず個人として止まらず進み続ける意志を保てる、
何かから奪ったりする必要なく精神を動かし続けられる、
そんな状態を実現しておくことが大事ということです。

そのうえで、実際に言動等を結果に結びつけようと考えた時に、
そのために必要なエネルギーを時に自分以外からも借り受ける、
適切な場を見つけ身を置くということが大事になる。

その際は必ず循環させる、得たエネルギーを返すという意識は、
きちんと持ち続けないといけない。

これも先にお話したように場とは適切な手入れをしなければ淀むため、
場の一員としてエネルギーが循環する適切な状態に保つ意識がないと、
どんどんと場を淀ませる一因となり自身にも悪影響が及ぶ。

あるいは、その場の中心的な人達がきちんと手入れを怠らないなら、
自然とその場から弾き出されることになるでしょう。

大事なので繰り返しますがエネルギーとは動き、動きとは循環であり、
自身もまたその循環の一部として適切に流すという意識がないと、
場はもちろん自身すらも停滞していくことになるのです。

色々お話してきましたがようは自分は今動こうという意志があるか、
あるのならどのように動いていけばよいか、どうすれば動きを保てるか。

そのことをきちんと自覚し把握し続けるのが大事。

把握して停滞を促す邪念からは距離を置き、
より大きな動きを生み出せる場の循環に、
自身も寄与するんだという意識を持つ。

そして、いずれ自身が満たされた時今度は自分が軸となって、
何かしらの循環を起こせるようになることを目指す。

そうして、循環を起こされ起こすことを繰り返すことで、
無限のエネルギーの恩恵を最大限受けることができる。

成せること、得られるものが自然と増えてくると思いますから、
何かしら思うところがあればぜひ意識してみてもらえればと思います。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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