あるものを失ってからしかその大切さに気づかない性質が社会環境を悪化させる

よく人は失ってはじめてその大切に気づくと言われる、
だから今あるものに目を向けなさいという戒めの言葉でしょうが、
個人的に思うのは人はおそらく失ってからでしかその大切さに気づけない。

失う前に大切を理解するのはおそらく無理だと思う、
それは単純に脳の機能としてそうなのだと考えられます。

と言うのも、まず人間には意識と無意識という2つの思考領域があり、
それぞれが独自の認識法で世界と向き合っている。

意識は理性的に物事に相対し基本現実の流れの一部を切り取って把握する、
無意識は本能的(感情的)に目の前の物事を受取り一定の反応を返す。

つまり人間には時間、流れとして現実を捉える能力が乏しい。

意識はやろうと思えば流れとして考えることもできるのですが、
莫大なエネルギーを使うえにそもそも意識には感情を分析はできても、
それを感じ取る能力がおそらく存在しない。

肝心の感情を司る無意識、人間の本能的な部分は認識できるものが全て、
今目の前にある物事に反応することしかできないことに加えて、
今持っているもの、当たり前にあるものに対して鈍くなる。

ようは時間感覚もなければ持ってるものを認識する感覚も乏しい。

意識的に今あるものを大切だと分析することができたとしても、
それを大切だと感じられる能力が人間には乏しいのです。

だから大抵ある時の状態とない時の状態を比べてその落差を理解するまで、
今ある、持っているものがどれだけ大切なものであったかに気付けない。

気づけずに時に手遅れになることもあるのだと思う。

繰り返しになりますがこれは人間の脳の基本的な性質であるため、
個人差はあれど誰もが少なからず同じような傾向を持ちます。

問題なのは、社会というのは生まれながらにあるもので、
その尊さを個人として理解することは極めて難しく、
そういう個人が集まった民主制国家の場合。

大切なものが失われていくことに気づきづらくいつの間にか、
取り返しのつかない大きな損失を被っている可能性が高まるということ。

その典型が日本という国なのだと考えてます。

日本は世界でも稀に見る余裕ある社会を築いていた、
加えてそれを維持するための社会制度や文化伝統もしっかりしていた。

ですが、それ故に余裕ある社会が当たり前のように存在するものだと、
近代に生まれた人達は錯覚しその大切さを理解できなかったのだと思う。

第二次世界大戦の敗北やそこからの復興に力を注いだ先人たちが、
次々に影響力を失い世を去り現代人へとバトンを渡していく中で、
今あるものが類稀なる尽力によって築かれたものだと。

知りすらしない、知っていても実感はできてないという状態故に、
改革とか新時代などをお題目として掲げ手当たり次第に、
何も考えず手を加え時に投げ捨て売り渡し。

日本という国の基盤を打ち壊してきた。

それでもなお、いくらか余裕を生むほど大きな基盤であったために、
今だけ金だけ自分だけの言葉に代表されるような生き方がもてはやされ、
成立してしまっていた期間が長く続いたのだと思います。

しかし、それもそろそろ終わりに近づこうとしている。

現代はもう自由というか無軌道な生き方が成立するほど、
日本単体を見ても世界全体を見てもその余裕はない。

特に精神的な余裕は皆無に等しい。

格差の拡大や個人主義が故の個々人の分断化による社会的混乱は、
世界的に見ればもはや明らかで根本的な解決策を講じない限り、
もはやどうにもならないような様相を呈している。

先に話したように日本は類稀な余裕ある社会基盤を持っていたため、
国民性も相まってまだそこまで大きな混乱は起きてないものの、
何も方向転換しなければ時間の問題だろうと考えてます。

なので、少しでも良い方向に向かってほしいと思う、
そのために大切なものを大切と気付けない人間の思考傾向を、
はっきりと自覚することがまず大切だと思うのです。

理解、実感できなのは脳の基本性質としてもう仕方がないと諦め、
そのうえでそれを自覚し意識的に考え続けるということを、
1人でも多くできるようになっていけば。

個人としても社会全体としても失ったことによる大きな損失を被る前に、
少なくとも被害を最小限に抑えることはできるのではないかと。

そのように思うのです。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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