否定も肯定もある基準に縛られていることには変わらない

現代はとにかく主観、自分を大事にするという価値観が根強い。

自分の感覚、経験、実感こそ絶対としそれ以外を軽視する、
時にないものとして扱うような傾向もあるように思います。

基準を定めるのは自分でなければならないという考え方もある、
しかしその基準をどうやって定めるかと言えば大抵の場合、
ゼロから何かを考えているわけではないでしょう。

自覚的かはともかく何かしら前提となる基準がまずあって、
それを元に大抵は否定、あるいは肯定することで、
それを自分で熟考した選択であるとする。

ですが、それって結局のところその基準に縛られている、
その基準を軸としてそれに沿うか沿わないかを選んでいる。

それが悪いというわけではない、むしろそれが当たり前のこと、
すでに構築された社会の中で生きていく以上、
そこにある基準に影響されることは避けられない。

社会的なものだけでなく生まれながらに持つ身体的な特徴や、
生まれ育った環境、人間関係などの相互作用によって、
人は自分というものを形作っていく。

自覚していないだけで自分以外の影響から様々な基準が、
自分の中にできていくことは避けられない。

だから選択というのが人間にとって唯一の自由であると個人的には思う。

様々な基準をできるだけ把握し、精査し、きちんと向き合ったうえで、
自分はどのような基準によって人生を歩んでいくかを定めていく。

選択によって生まれる軌跡が唯一無二のその人だけの独自性となる、
それが主観、その人らしさを生むのだと思っている。

だけど主観こそ全て、自分の経験や実感のみを良しとする傾向が、
逆にそういう選択による独自性を毀損してきたように思います。

今の自分の感覚を絶対とし自らを省みずその時々の気分を重視することで、
無自覚に形作られた自らの傾向に自覚的になることができず、
結果として外からの影響に流されるだけになってしまうからです。

自分の感覚を大事にする、自分というものをしっかり持つ、
それは良いことであると思います。

ですが自分とは何か、今の自分自身の感覚を生んでいるものは、
自分がしっかりと考えたうえで選択したことの積み重ねなのか、
それとも外からの影響によって無自覚に形作られたものなのか。

そのように自らを省みることなしに自分というものは見えてこない。

自分を大事にするのはいい、だけど本当の意味での自分を大事にするには、
まず自分という輪郭をはっきと浮き立たせる必要があるように思う。

それをしないまま自分を大事にしすぎると逆に自分の輪郭がぼやける、
ただ周囲の影響に流されるままになってしまうのではないかと思うのです。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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