思想は包括的でないと広がらないが抽象的になるため必ず争いが起きる

当然といえば当然なのですが排他的な思想は広がらない、
世の中に広く知られるものはすべからくどこかの段階で、
包括的なあり方を模索し始める。

例えば世界の3大宗教、仏教、キリスト教、イスラム教もそう。

ブッダが開いた仏教という教えは元々排他的と言うか個人的だった。

精神的に世界との因果関係を断ち自分という存在に集中することで、
外からの影響に揺らぐことのない精神を育むという教え。

逆に言えば外の世界に影響を与えることを目的としない、
ブッダは世の苦しみを何とかしたいと出家しました。

ですが、ブッダ本人が悟りを開いた後に能動的に、
その教えを広げようとはしなかった。

請われたから、聞かれたから応えるというスタンスを貫いたと思われる、
それは仏教的な悟りを開いたことで世の中に影響を与えようとする意志が、
極めて弱くなったからだと考えられます。

故に、ブッダを祖とする仏教は排他的で個人的なもの、
個人が個人として救われることを説いた教えなのです。

その傾向が変わったのはブッダの死後、教えが伝えられていく過程で、
他の宗教、ヒンドゥー教(旧バラモン教)の影響が再び強まり、
仏教の影響力の脅威となり始めた時。

一部の僧侶たちが個人が個人として救われるのではなく、
大勢の人があまねく救われるような教えを目指すとして、
新しい仏教としての教えを生み出した。

それは大乗仏教と呼ばれそれまでの個人的な教えを、
小乗仏教と呼び否定し始めたのです。

そうして仏教は現代まで強い影響力を持ち時に人々の支えになった。

まあ、ひねくれた考え方をするなら影響力が損なわれることを危惧して、
自分達の都合が良いように包括的な教えに変えたとも取れますが。

同じようにキリスト教が世界に大きな影響を与えるようになったのは、
前身であるユダヤ教から分かたれた時です。

キリスト教は1つの神の声を預言者アブラハムを通じて形となったもの、
セム的一神教と呼ばれる宗教形態の1つであり同じくセム的一神教の、
ユダヤ教から分かたれて世に広まった。

ユダヤ教自体はユダヤ人のための教え、唯一の神であるヤハウェは、
ユダヤ人だけを守護する神であり救われるのもユダヤ人だけとされる。

故に、当然ですがユダヤ教はユダヤ教のままでは広がらない。

ですが、ある時にユダヤ教内で分裂が起き一部の人が宗教として、
より包括的な教えを生み出そうと考えた。

それがイエス・キリストとその弟子達であると考えられ新しい聖書、
新約聖書という名前の書物を生み出し世に広めたのですね。

旧約聖書はユダヤ教の教えというか歴史書という立ち位置です。

最後にユダヤ教、キリスト教と同じセム的一神教のイスラム教ですが、
比較的新しい宗教で西暦570頃~632年まで生きた、
預言者ムハンマドよって開かれた宗教です。

イスラム教が特殊なのは仏教から大乗仏教、
ユダヤ教からキリスト教のように、
排他的なものから包括的になったわけではないこと。

ムハンマドは元々商人でありその考え方は極めて合理的だと考えられる。

入信のハードルは低く絶対実践すべき行動は5つでそこまで難しくない、
聖書や大乗仏教のように後ほど教えを付け足したり変えたりも許さず、
コーランのみを唯一信じるべき教えとして偶像崇拝も許さない。

つまり、コーランという1つの教えを信じやるべきことをやっておけば、
その他は比較的自由にやってよいという教えなのですね。

他の宗教と比べればその手軽さやシンプルさから入信者も多く、
これから先、キリスト教信者の人口を抜き世界一の宗教となる、
その可能性が高いと考えられてます。

以上、3つの宗教についてざっとお話してきましたが、
改めてまとめると世に広く広まる宗教というのは、
当然ですが包括的でないといけないのですね。

しかし包括的であるとは抽象的であるということ、
抽象的なものは具体的な言動等に落とし込もうとする時、
落とし込む人間の思考や意志、思想等が混じるもの。

故に、解釈違いや支配のための都合の良い価値観が時に混在する、
それが元で内部分裂が起きやすく争いも生まれる。

キリスト教がカトリックとプロテスタントに分かれて、
長きにわたり争い続けているのはその典型でしょう。

地域によって微妙に違う教えに変わっていたりもする、
日本にも1870年代にアメリカで生まれたキリスト教一派、
エホバの証人という自分達が神の教えの正統であると。

そのように考え布教活動をしている一派があります。

で、結局何が言いたいのかですが宗教にせよそれ以外の思想にせよ、
世に広まるには包括的である必要がありますがその代わりに、
解釈の余地を生んでしまう、惰弱な一面が出てくるということです。

世界を1つの教えなり思想なりで統一しようと考える、
そういう人間はいつの時代もいると思われますが、
うまくいかないのはこの辺りに理由があるのでしょう。

そう考えるとイスラム教は宗教(思想)としては極めて完成度が高い、
コーランのみを信じそれ以外は認めないけどコーラン外のことは、
自分達で自由に決めて良いとする。

精神的に余裕がない状況での受け皿としての役割を持ちながら、
余裕がある時は自分達が求めるより良く自由な人生を、
コーランに反しない範囲で追求することができる。

何も基準がない全てが自由である状態よりある程度の制約がある方が、
方向性も定まりやすくエネルギッシュに行動できるという側面もあります。

教えの解釈違いによる内部分裂もない。

日本のニュースでシーア派という言葉が出てくることが多く、
分裂してる印象を抱く場合もあるかもしれませんが、
シーア派ともう1つのスンナ派の争いは後継者争いなんですね。

詳しく話すと長くなるので省きますがコーランという神の教えを、
現世において実践する指導者として誰がふさわしいかという争いであり、
教え自体の争いではないのです。

キリスト教が教えの解釈違い故にどんどん分裂し影響力を落とす中、
1つの教えで団結できるイスラム教が影響力を強め、
いずれ世界一の人口を持つという予測は妥当だと言えるでしょう。

だからイスラム教が正しいなどと言いたいわけではありません、
何にせよ人間が前に進んでいくには何かしら信じるべき思想を持ち、
それを自らの軸と定めることが必要になる。

その時、もし外から何かを選び定めようとするのであれば、
以上のように思想の包括性によって時に分裂が起き、
争いにまで発展することもあり得るということ。

とは言え自分だけで確固とした自分を確立するということは、
それはそれで極めて難しいことも確か。

それでもきちんと方向性を決めるためには何かを定めなければならない、
より良く最善の何かを定めるためには以上のようなことを自覚し、
時に柔軟に考える必要があるということを。

きちんと知った上で選ぶなら後悔する可能性も低くなる、
しっかりした足取りで人生を歩めるのではないかと。

そう思ったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?