どうやら自分は矛盾や葛藤を乗り越えようとする人が好きらしい

はじめにお話しておきますがこの記事は僕の理念や価値観の整理、
情報発信とか人と関わるうえでもっとも大事にしているものを、
一度じっくり考え直してみようと思い書いた記事です。

公開することで改めてそれを大事にしていくという、
決意表明のような側面もあります。

なので、興味がないならせっかく開いてくれたのに申し訳ないですが、
閉じてもらって別のことに時間を割いてください。

読んでみようという奇特な方であれば誤字脱字や構成などは整えたものの、
基本的には考えついたことをつらつらと書いていったままを残したもので、
内容が飛躍しているところもあることは先にお伝えしておきます。


では本題。

このnoteは誰かに読んでもらうことよりかは自分自身の思考を、
きちんと言語化して明確に形にし理解を深めるという意図ではじめた。

公開することで他人の目に触れる可能性があることを意識すれば、
中途半端には書けなくなるからという側面もあります。

公開する以上は誰かのために役に立てばいいという思いはあるし、
時間を割いて読んでくれる人が少しでもいるのなら、
全力で誰かのために書くという意識を働かせていることも確か。

ただ、これまでは誰かのために全力である以上に、
自分のためにという側面が大きかったことも確かです。

記事を書く時はまずアイディアとか漠然とした思考があり、
それを文章という形で明確にしていくという流れになる。

文章を書く個人としての意図はここの時点で終わっています。

しかし、公開し読んでくれる人が少しでも現れる可能性がある以上、
誰のためのものかを明確にすることは大事だと思っていたので、
最後にこれはどういう人が読めば役に立つだろうか?

どういう人であれば力になることができるだろうかと考えて、
結論や冒頭などに誰のためにという意図の文章を添える。

それを1年と半年以上毎日続けてきた結果自分が、
どういう人間に好意的になりまた避けたいと思うか。

そんな他人に対する価値観や姿勢が深まった。

どうやら自分は矛盾や葛藤を乗り越えようとする人が好きらしく、
逆に善人悪人関係なくそういう矛盾等がない人間に興味を持てない、
時には明確に嫌悪感を覚えるのだということがわかった。

それは、前者が人間らしく人間としての可能性に満ち溢れているのに対し、
後者は人間と言うより動物に近く本能のまま周囲を振り回すからでしょう。

よくお話することですが人には意識と無意識という2つの思考傾向があり、
両者は異なった方向性の思考を行うため必ず何かしら矛盾や葛藤する。

人間という存在がきちんと思考を働かせているという前提のもと、
常に矛盾や葛藤から逃れられない存在でありそんな存在が集まる社会も、
当然ながらあらゆる意図が衝突し矛盾や葛藤を生み出す環境です。

ですが、矛盾や葛藤があるからこそ人には可能性がある。

理想と現実、自身と他人、理性と自然、生と死、意味と感情、
あらゆるものが常に衝突し合い時に様々な苦悩を生みながら、
それでもどこかに向かっていきたいという意志がより良い可能性を開く。

人間は矛盾と葛藤を生みそれを乗り越えようとする意志を持って、
はじめて可能性ある人間として人間らしく生きることができるのだと思う。

ですから、現状がどんな状態であっても矛盾や葛藤から目をそらさず、
自分なりに答えを模索しゆっくりとでも前に進もうとする人を、
僕は最も尊い存在だと感じるのです。

その結果、出した答えは自分の価値観や基準に合わないこともある、
自分と誰かの価値観や思考傾向が相反する時、
そういうものを受け入れることはできないでしょう。

ですが、その答えを出すに至った過程の全てを尊重する、
出した答えがいかなるものでどれだけ歩み寄っても反するとしても、
あるいは社会や世界から全否定され強制的に排除されるようなものでも。

それが本気で矛盾や葛藤と向き合った末の答えならその過程を肯定する、
そこには人間として生きることの意味が凝縮されていると思えるからです。

逆に、例えそれが自分の価値観等と合致したものであったとしても、
そこに矛盾や葛藤を乗り越えようとした軌跡がないのであれば、
それを人間として尊重することはできないでしょう。

それが社会や世界的に善とされ無条件で受けいれられるようなものでも、
むしろ無条件で受け入れられるようなものだからこそ尊べない。

善とは矛盾や葛藤する複数の要素のバランスを取るために、
常に思考を働かせ続けることだと思っているからです。

例えば個人の自由と社会の規範は度々衝突する。

それは、人間が個人と社会によって構成された生き物であり、
個人の欲求等を無制限に叶えようとすればそれは時に、
社会的な構造や規範等と対立するからです。

故に、個人のあり方と社会のあり方に完璧でまったく反論の余地なく、
それ以上ないというバランスの基準は少なくとも現代において、
未だに見出されておらず常に議論が続いている。

だけど、それでいいと思っている。

そうして常に議論して矛盾葛藤に折り合いをつけようとあがき続ける限り、
常により良い道へと至る可能性が含まれているからです。

逆に言えば折り合いをつける、バランスを整えることを諦めた時、
個人も社会もそのあり方に大きな傷ができるのですが、
それをわかってないと思える人が多いと思う。

例えばこれはどこで誰が言ってたのかちょっと忘れたんですが、
というか同じようなことを言う人が結構多いのですが、
社会は個人の欲求を満たす便利な道具だと思ってるんですよね。

だから、きちんとした社会であれば個人が生きるうえで役立つけど、
そうでないなら別になくていいとか平気で言ってたりする。

こんな感じの意見を見るたび言葉は悪いですが浅慮だと思ってしまう。

そもそも、個人が個人としての自我を得るまでに成長できるのは、
社会という人間の集団があるおかげでしょう。

自分が生まれてくるにはまず両親という集団が必要になって、
両親が安心して子育てができるようになるには国という、
より安定した社会が必要になってくるわけです。

今成長して個人として生きているのが社会のおかげ。

先に人は個人と社会で構成されている生き物だと、
そういう表現を使ったのはこのためです。

成長した後も住む家は?食べ物は?服は?清潔な社会環境は?治安は?

そういったものを全部個人でまかなっているのでしょうか?

そんなわけもなく少なからず個人の欲求を満たすために、
社会という力を利用してるわけです。

こんなこといちいち言葉にして再確認するのも馬鹿らしいほど、
明確な事実であるのは少し想像力をめぐらせればわかること。

ですが、先のように道具だとかなくても良いと平気で言えるような人は、
そういうことを想像したことすらないとしか思えない。

これっておそらく個人と社会のあり方にバランスを取ることを諦めた、
諦めて個人としての欲求のために全てを正当化し道具化した。

自分以外の全てを自分の下においた傲慢さの表れであって、
それは矛盾や葛藤と向き合い考え続けるのを放棄したことを意味する。

そこにより良いあり方が開く可能性はない。

常に個人としての欲求を押し通したいという意志と、
社会的な構造や規範との妥協ない戦いだけが繰り広げられ、
勝って社会を無茶苦茶にするか負けて強制排除されるかしかないのです。

問題なのはそういう個人として全てを下に見る傲慢さを持つ人が、
それなりに多くなって少なからず影響力を持ちはじめてることですが、
これについては長くなるのでここでは置いておきます。

言えるのは、そういう傲慢さを外に発信しているぐらいですから、
おそらく自身の言がどういう意味を含むのか自身で把握できていない、
矛盾や葛藤がないから思考し客観視するということができてない。

ただ、個人の欲求を満たすという動物的な本能しかそこにはない、
そういう人は個人的には醜いと思うということ。

そして、そういう浅慮さによって生まれる何かはそれが現環境で、
善と呼ばれるものでも悪と呼ばれるものでも確固たる礎を持つことなく、
あっさりと崩れ去る脆いものであるということです。

崩れた時により良い道をまた模索し始めることもできない、
そこに矛盾や葛藤があることから目をそらしたのですから。

時代や環境で善悪の基準が変わるのはバランスの重点が変わるからであり、
重点が変わった時に矛盾葛藤を乗り越えることなしに成立したものは、
必ず別のなにかに取って代わられることになるのです。

と、少し話が散らかってきたので最後にまとめたいと思う。

とにかく、僕は矛盾や葛藤に苛まれようとそれを自分なりに乗り越えて、
より良い道を模索する人が好きだしそういう人に報われてほしいと思う。

だけど、世の中にはそういう矛盾葛藤から目をそらして、
それが個人の実状として留まっているだけならともかく、
その浅慮さから模索する他者を平気で傷つけ邪魔をする。

そういう人なり集団なりが結構存在しているという現実があり、
加えて厄介なのはそういう人は浅慮さ故に行動等が早く、
故に脆くとも表面的にはまとまりやすく影響力を持ちやすいこと。

影響力を持てばそれが客観的にどれだけ馬鹿らしくとも、
少なからず社会全体に悪影響を与え個人個人にも波及していく。

中身はスカスカでもそれなりに巨大になれば、
それによって与えられる実害は大きい。

実質的、精神的両面において。

それでも、そういうマイナスな影響を受けようとも諦めることなく、
より良いバランスを整えようと前に進んでいきたい人のために、
その害の影響を軽減し人生を通じて考え続けることを諦めないように。

また、どのようにバランスを取ればいいのかについて、
少しでもヒントやきっかけとなる何かを見出してもらえればと。

これまで無意識ながらそういう気持ちで文章を書いていたのだと思えた、
これからは明確にそういう意図を持って書くことができる。

自身の価値観や姿勢への理解がより深まったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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