見出し画像

クォンタム・ファミリーズについて考える

東浩紀の「ゆるく考える」を読んで気になったので、「存在論的、郵便的」を読んでから「クォンタム・ファミリーズ」読んだ。


「クォンタム・ファミリーズ」は、多様な読みが可能なパロディ小説である。
主なパロディの元ネタとして
・「存在論的、郵便的」「動物化するポストモダン」などの東自身の著作
・「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」など村上春樹の作品
・「CLANNAD」など美少女ゲーム
が挙げられる。


これらの作品の問題意識は互いに重なり合っており、ここでは
・「かもしれない」自分への欲望
・虚構と現実の選択
・物語構造
という3つの観点に整理して、論じてみたい。

結論は
本作品は、「父としての役割」・「現実」を引き受けることの困難さを描いた物語であり、虚構とも現実とも区別のつかない生を肯定し、運命を否定する。
というものだ。
以下、詳述する。

「存在論的、郵便的」は東初の単著であり、「クォンタム・ファミリーズ」は「存在論的、郵便郵便的」の続編であると東自身が語っている。
「存在論的、郵便的」は、ジャック・デリダの解説書である。
本書では、「郵便」=「かもしれない」を表す代表的な隠喩 に託して、歴史、固有名、コミュニケーション等について論じている。そこで東は
・歴史とは、過去ー現在ー未来の一直線、さらに未来が過去に繋がった円環、ではなく、事後的に見出されたものであり、「現前したことのない過去」、「痕跡」にこそ注意を促す。
・固有名の独自性とは、実在物の名指しではなく、名指しがあったと錯覚させることであり、それは二次創作の結果であるとする。
・すべてのコミュニケーションは常に自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故の可能性(=誤配の可能性)に晒されていて、
 そうして、このようなコミニケーションの失敗可能性、「行方不明」な存在が潜在的に存在し続けうる空間を「幽霊」について思考するための不可欠な契機とした。「幽霊」とは、どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的なものだ という。

本作品には、これらの歴史観、固有名観、コミニケーション観が反映されており、物語の広がり、駆動力となっている。

 複数の平行世界を旅する葦船往人にとって、歴史とは一本の直線ではない。複数の時間線、自分が辿ったもの以外のあり得た「かもしれない」時間線も含めた束だ。
 「かもしれない」時間線は、欲望を呼び起こす。自分とは異なる時間線での自分の可能性についての欲望だ。35歳問題、網上地下室で葦船往人が提唱した尊厳の再分配、葦船風子の父親探し、理樹の歴史改変、友梨花の決意、いずれも、異なる時間線での自分への欲望、理樹の言葉を借りれば「現実と虚構の区別がつくことと、現実と虚構の区別がつかないこととの間の区別がついていない」ことに端を発する病である。同じ病に掻き立てられた家族の物語が「クォンタム・ファミリーズ」である。
 
 本作品は美少女ゲーム「CLANNAD」のパロディである。家族というテーマと、登場人物の多くの名前がこの作品から採られている。例えば、「CLANNAD」をプレイしたことのある読者なら、娘Ⅰで「葦船風子」という名前を目にした時、地の文の「です」の語尾と相まって、小柄で黒髪長髪の女の子が頭に浮かんだはずだ。おそらく、物語を前に進めるトリックスター的な役割が与えられており、一見してそうは見えないが献身的で…と本文に書かれている以上のイメージを読み込んだのではないだろうか。一方で、風子が往人に対するサディスティックな欲望を抱く描写を読んだ時、違和感を感じたかも知れない。

 「クォンタム・ファミリーズ」の文体はあっさりしている。人物描写もあっさりしている。汐子をのぞく全員が東浩紀その人のようだ。誰も彼もが冷静で合理的に判断を下す。それでも、無味乾燥な読書体験にならないのは、というよりむしろ、この文体だからこそ生きてくるのが、登場人物の固有名からくるイメージの豊富さである。登場人物の名前から、書かれている以上のイメージを受け取る。あるいは、書かれていることに違和感という手触りを残す。

 物語は「誤配」に満ちていて、それが物語を進める。
父Ⅱでは娘からと思った電話は息子からのもので、別の世界に飛ばされる。
父Ⅲで別の世界から来た往人はそのことを知らない友梨花との話は噛み合わない。(という読みが誤読であることが、家族Ⅲで示される。)
そもそも、家族Ⅲでこの物語自体が、汐子が風子の手紙を誤解したことにより作られたものであることが示される。

「かもしれない」自分への欲望に取り憑かれた、別作品の「固有名」で個性をかさ上げした登場人物たちが、コミニケーションの「誤配」が契機となって語られていく物語(=幽霊の物語)が伝えたかったテーマとは何か。それを考えるには、作品中でも度々言及されている村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と比較をしてみる必要がある。

 本作品は、「世界の終わりのハードボイルド・ワンダーランド」のパロディーである。むしろ、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と対比した読解を要請している。「存在論的、郵便的」「CLANNADO」の名は「クォンタム・ファミリーズ」には登場しないが、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」については作品中で直接言及され、「ハードボイルド・ワンダーランド」とは、並行世界の一種なのだと解説までされている。そもそも、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と「クォンタム・ファミリーズ」の構成はあからさまに似ている。現実である「世界の終わり」と虚構である「ハードボイルド・ワンダーランド」が交互に語られ、最終的には一致し、最後には虚構を選ぶ「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に倣って、「クォンタム・ファミリーズ」もまた、現実である「父」と並行世界(=一種の虚構)である「娘」編が交互に語られ、両者は最終的には一致し(「家族」編となり)、最後には(虚構である)並行世界を肯定して終わるように見える。本当にそうか?

細かく見ていくと「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と「クォンタム・ファミリーズ」の語っている内容は異なる。それは、1985年に出版された「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と2009年に出版した「クォンタム・ファミリーズ」の時代背景の違い、村上春樹と東浩紀の問題意識の違いから来たものだろう。

そうであれば、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と「クォンタム・ファミリーズ」がどのように現実と虚構を扱い、最終的になぜ虚構を選んだかを比較することで、時代背景、問題意識、ひいては作品のテーマを読み解くことができるだろう。

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」において、システムが埋め尽くしつつある「世界の終わり」(現実)と静謐さが支配する「ハードボイルドワンダーランド」(虚構)は対照的なものとして描写される。対して、「クォンタム・ファミリーズ」における葦船往人が最初に住んでいた世界(現実)とその他の並行世界(虚構)は作中で人間原理の説明を挟んで弁明をしなければならないほどそれぞれが「現実」であり、それぞれが等価である。

 「ハードボイルドワンダーランド」に入るにあたって僕は記憶を失う。そしてそれは、一種の解放として描かれる。
 娘のいる並行世界に移った葦船往人は、その世界での記憶がない。そのことは、不安として表現される。そのために往人は自分の部屋でPCのログを漁り、自分の痕跡を執拗に追い求める。

 虚構と現実がショートし、どちらか一つの世界しか選べなくなったとき、僕はある種の倫理感から虚構に残ることを選ぶ。
 異なる並行世界から集められた「量子家族」が物語を終わらせるに際して、往人は父として、今ここにある世界(現実)を肯定することを説き、汐子によって作られた運命の円環を閉じること(虚構)を拒否する。

インターネットがまだ普及する前の1980年代、来たる消費社会、記号との戯れに期待があった。
インターネットが普及した2000年代、虚構の世界は透明な解放の場ではなくなった。記録が蓄積され、忘れられることが許されない空間。それは現実以上にしがらみのあるもう一つの現実、というよりは、すでに私たちの現実の一部なっており、どこからが虚構でどこからが現実か区別することが困難になっている。

虚構と現実の区別がついていた、少なくともそう信じられていた時代には、虚構と現実が一体になるという事態は驚くべきことであり、その中であえて虚構を選ぶという態度には、何か倫理的なものが宿っていると感じることが出来た。
虚構と現実が区別できない、虚構は現実の一部である、両者は等価であるという認識が所与のものとなった現代において、改めて虚構と現実が一体になったと描写することにほとんど意味はない。虚構と現実を対比してどちらかを選ぶという問題設定自体がすでに無効である。せいぜい虚構と現実が入り混じったそれぞれに等価な複数の世界のうちのどれを選ぶかということしか出来ない。そして、それは、好みや気分の問題(一応それらしい理由は後付けで加えることはできるだろうが)にすぎない。そこに倫理的な何かを読み取ることはもはや出来ない。

2008年の時点で村上春樹の問題意識をアップデートし、改めて問題設定するとしたら、それはいかなる問いになるのか、そして、その問いに対してどのように応答するか。
これが「クォンタム・ファミリーズ」のテーマだろう。

村上春樹は、消費社会が到来し、虚構と現実が等価になりつつある1980年代において、いかに生きるべきかを問い、虚構の世界を選択せよ=消費社会、記号への戯れへの期待を表明した。

東浩紀は、「かもしれない」私への欲望が際限なく広がり、虚構と現実の区別が困難になりつつある2000年代において、いかに生きるべきかを問い、虚構か現実かの区別など考えず、今ここにある生(現実)を肯定することを表明した。運命(虚構)を否定した。

この東の態度は何を意味するのか。それを考えるには、そもそもの前提:「かもしれない」私への欲望、それをもたらす現代社会についての認識をより明確にする必要がある。

以下、「クォンタム・ファミーズ」を3つの構成に分けて、何が問われ、何が語られたかを見ていく。テーマがどのように語られたかを見ていく中で、前提となる認識、テーマが意味することを明確にしていく。

「クォンタム・ファミリーズ」を3つの構成に分けるにあたって、まず娘Ⅱまでを最初の区切りとする。次に第二部に入るところで区切りを入れる。つまり、往人の存在する時系列の変わり目を構成の区切りとする。

最初の構成は、往人が未来の娘:風子から手紙を受け取りアラスカに向かうまでの場面だ。風子視点では、並行世界の往人と交流し、理樹と出会い、旅に出るまでということになる。
ここでは、作品全体に対する問題提起がされる。社会に対する認識が共有される。だが、大切な情報は隠される。一番ワクワクする章だ。

網状地下室で往人が語った、普遍的法とそれに対する抵抗:テロの対比は重要だ。この区分に従えば、物語において最終的に往人が行うのは、一種のテロリズムだからだ。往人の否定するテロと物語の最後に往人が最後に行った行為の違いは何か。網状地下室の記述によれば、従来のテロは根本的な解決手段にならない。根本的な解決手段とは何か。それは、尊厳を配分することだ。問題の本質は貧困ではない。尊厳の欠如であるという。さらにいえば、尊厳がゼロサムゲームになっている現状が問題で、それはテクノロジーによって解決可能であるという。
物語が進むと程なくして、テクノロジーの進歩は尊厳の錬金術になるどころか、尊厳の欠如を加速させる未来を提示されるが、ここでされた問題提起は重要である。
現代社会において、いかに人は尊厳を持って生きることが可能か。
物語全編を貫く問題意識として人の尊厳の問題があることは明記しておくべきであろう。

往人は未来の風子から手紙を受けとるとき、奇妙な反応を見せる。
往人は手紙を実在の未来の娘からのものとは思わない。自分は狂ったと冷静に判断する。にも関わらず、なんだかんだと自分への言い訳をして熱心に手紙への返事を書く。
ここに東が「動物化するポストモダン」で紹介した「アイロニカルな没入」が見て取れる。
「アイロニカルな没入」とは、虚構を享受する人間に典型的に見られる態度のことで、意識の上ではその虚構を信じていないと思いながら、行動の上では熱心にその内容を信じているかのように振る舞ってしまう状態を指す。

「アイロニカルな没入」はもともと「否定神学」という概念から派生した。「否定神学」とは、神はいないと表明することで逆説的に神の存在を擁護してしまうことを指す(本当に神を信じていないのであれば、そもそも話題にさえもならないはずである)。

ここに、理樹が「現実と虚構の区別がつくことと、現実と虚構の区別がつかないこととの間の区別がついていない」と表現した、虚構に対する態度の困難さがある。

単にその虚構を信じていないと表明すれば済むのではない。虚構を否定すること自体、その虚構への信仰告白をするに等しい。虚構の否定はめぐり巡って、その虚構を信じている振りをする行為に回帰してしまう。私たちが秘めたる願望を抱いている限り。

虚構のバリエーションである、「かもしれない」私に対する欲望に関しても、全く同じ議論ができる。「かもしれない」私に対する欲望を気にするのはやめようと言うは容易い。だが、その表明をしたこと自体がすでに、「かもしれない」私に対する欲望の術中にハマっていることになるのだ。この意味で、「かもしれない」私への欲望を「病」と表現した理樹は的確に状況を把握していた。「量子家族」のメンバーは、往人も風子も理樹も友梨花も皆、「アイロニカルな没入」による「かもしれない」私への際限のない欲望という制御不能の症状:病に侵されていた。

娘Ⅰでは、風子の語りによって、テクノロジーの発達による情報処理能力の向上は虚構と現実の区別をますます困難にすることが比喩的に語られる。

量子コンピュータの発達が、実際に並行世界の情報を受信する契機になるか否かの工学的な議論はここでは必要ない。SFの価値とは科学技術と未来とを結ぶの想像力、一種の神話、巨大な比喩としての世界観を示すことにあるのだろう。

情報(引用と編集が可能な書き言葉=エクリチュール)の蓄積と処理能力がテクノロジーの発達により増えある閾値を超えると、やりとりされる情報の信頼性が一挙に下がる、つまり虚構と現実を区別することは不可能になるという描写は説得力があり、かつ現在進行している事態である。

ただし、繰り返すが、それは量子的な効果によるものではない。情報(書き言葉、エクリチュール)の持つ性質によって引き起こされる事態である。

「存在論的、郵便的」で指摘されているように、書き言葉(エクリチュール) と 話し言葉(パロール) の違いは、その引用可能性にある。書き言葉(エクリチュール)は、書き手の意図を超えて、引用され、解釈され、編集されていく性質をもつ。

利用可能なエクリチュールの総量と、エクリチュールが引用、解釈、編集される速度が一定の閾値を超えた時、読み手にとって、あたかも、エクリチュールがひとりでに書き換えられていくような世界が出現する。異なる引用、解釈、編集が並列に生み出されていく量に対し、どれが正しいか判別するコストが追いつかなくなっていく。結果、虚構と現実を区別することが困難になる。2035年の未来に託して描写された現在進行中の我々の置かれている情報環境とは、そのようなものだ。

娘Ⅱで、風子と理樹の会話によって、「かもしれない」私への欲望、つまり並行世界にいる私の可能性:反実仮想を考えてしまう私とは、私という意識に埋め込まれた基本的な機能、もしくは、私という意識そのものが反実仮想の機能から生み出された効果であるという仮説が提示される。

先の否定神学の議論を抜きにしても、平行世界のことなど考えるな、もしあの時ああだったらなど思うな、などという心の持ちようで「かもしれない」私への欲望という病は解決しない問題なのかもしれない。
ある条件が整った時、私たちは、自動的にもう一つの自分について想起してしまう。それが意識の基本的な機能なのかもしれない。

情報テクノロジーの発展によって、エクリチュールの引用、編集、解釈可能性が増大し、私たちの
意識に備わっている基本的機能である反実仮想の機能もまた自動的に活性化した。

「かもしれない」私への欲望に抗う困難さとは、自然現象に抗うこと(例えば空腹感!)の困難さなのだとしたら。

ここまでで、「クォンタム・ファミリーズ」が前提としていた問題意識、問題提起を明確にできたと思う。まとめると、
情報テクノロジーの発展により、エクリチュールと意識の基本的機能が活性化して、虚構と現実を区別することが困難になり、「かもしれない」私に対する際限の無い欲望が生じることになった。「アイロニカルな没入」により、「かもしれない」私に対する際限の無い欲望から逃れることは困難である。そうした現代社会において、いかに人は尊厳を持って生きることが可能か。

答えは、網状地下室で往人がすでに語っている。
虚構と現実の区別が不可能となったこの現状の、更なる徹底により人は尊厳を持って生きることが可能になる。そして、そのために往人は普遍的法の枠を超えることをも辞さないだろう。

どういうことか。それは最後に明らかにされる。それは結論だけ示されてもわからない。物語には順番というものがあるのだ。

続いての構成では、往人が友梨花と風子のいる平行世界で暮らし、テロに巻き込まれて二人を失う。風子は旅に出て、理樹とともに往人のいる世界線に合流する。

この部分の役割は、バットエンドルートの提示と伏線・種まきだ。初読ではどうしても最初の部分ほどは面白く感じない。最後まで読んだ後、読み直すとまた違うのだが。

ここで言うバットエンドとは何か。現代社会の抱える困難さを踏まえて、人が尊厳を持って生きるための、いい線いっていたが、結局は上手くいかなかった解決案だ。

東浩紀は、最終的な結論に入る前の傍証として、あるいは、「CLANNAD」をはじめとする美少女ゲームのフォーマットに則って、一生懸命やったが上手くいかなかったシナリオを2つ提示した。

一つは、いいとこ取り戦略とでもいうべきシナリオだ。
並行世界からいいとこ取りをして、尊厳のある人生を送ろうということだ。
理樹の描いた戦略でもある。

往人を待ち受けていたのは、子宮筋腫を患っていない関係が良好な友梨花と娘の風子だった。経済的にも以前いた並行世界より数段恵まれていた。

だが、この世界で往人は尊厳を調達できなかった。幸せになったと描写されなかった。敗因はおそらく人の欲望の構造にある。

一見奇妙な往人の心理描写がある。並行世界の記憶がなく、友梨花と風子を往人は愛せない。無関心である。ところが、テロが起こり、友梨花と風子を失うことを想像して突然、二人に対する愛に目覚める。二人を助けにテロの現場に飛び込み、二人の死に涙する。並行世界の記憶が蘇った訳でもないのに。

順番が逆転しているのだ。今ここにないもの、あった「かもしれない」ものに人は欲望し、その欲望に後から理由をつける。失って初めて愛に目覚めた、などと。すでにあるもの、手に入ったものは欲望の対象にならない。欲望の対象にならないことにも後から理由をつける。僕はこの世界の僕自身の記憶がなく、従ってどうしても当事者意識がもてないんだ、などと。

尊厳の問題には、物質的豊かさ、関係性の豊かさの他に、人間の欲望の構造の問題が関わっており、これを無視すべきではない。いいとこ取り戦略の失敗はこのことを教えてくれる。

もう一つバットエンドが提示されている。テロで一瞬の欲望を満たそう戦略だ。
新が取った戦略だ。一見しただけで無茶苦茶な戦略だとわかるが、学ぶべき点はある。なぜ無茶苦茶か考えることからも有用な学びを引き出せる。

テロで一瞬の欲望を満たそう戦略の評価すべき点とは、人の欲望の問題を踏まえている点だ。
言い換えると、いいとこ取り戦略の二の轍を踏んでいない。美学的に彼方の理想:死・英雄・文学的完成etc を想定し、それがテロ行為で満たせるとする。理想・死・英雄・文学的完成、こういったものは無論、彼岸の存在、ここにはないものだから当然、欲望の対象だ。テロ行為の完遂の瞬間、新の尊厳は確かに満たされたかもしれない。
しかし、この解決策には意味がない。継続性が全くないからだ。

ただ、以上の2つのバットエンドからトゥルーエンドルートの満たすべき条件は何と無く見えてきた。
・今ここにないものを欲望するという人間の欲望の構造を踏まえていること
・継続性があること
いわば、今ここにないものを永続的に充足し続ける、終わらないテロリズム、そういったものを展望していることになる。

ここで補足として、ここまでに貼られた伏線について軽く触れる。ただし、全ての伏線を指摘するのではなく、テーマに密接に関わっていると思われるものを2つ取り上げる。取り上げたいのは奇蹟・運命と記憶に関する記述だ。

「クォンタム・ファミリーズ」において、奇蹟・運命という言葉が度々登場する。例えば往人が空港で友梨花と風子と会う場面、風子が往人のクリプキ数を見つける場面、それは「奇蹟」と表現される。そして「クォンタム・ファミリーズ」を最後まで読めば分かるのだが、「奇蹟」という表現は2064年の汐子が介入した事象を対して使われている。
「運命」という言葉も同様の意味で使われる。往人、風子が何か決断を下すとき、「運命」という言葉が使われる。そしてそれは、汐子の意図するルート(すなわち「量子家族」の再会)に向かって正しく行動を開始したことを意味している。

「CLANNAD」をはじめとする美少女ゲームにおいて、奇蹟・運命という言葉は特別な意味を持っている。あり得ない確率で男女が出会ったり、死から蘇ったり、そしてその事象が起こった理由は作中では説明されない。美少女ゲームにおいて奇蹟・運命は感動をもたらす。

一歩引いて見ると奇蹟・運命が起こった理由は簡単だ。作者が意図して、通常の文脈を無視してまで特別に、そうなるように書いたからだ。ただ、そのことは、美少女ゲームをプレイしている間プレイヤーに意識されることはない。

「クォンタム・ファミリーズ」を再読するとき、この物語が汐子によって編集された物語であるということを意識して読むことになる。奇跡・運命という言葉を読む際に、通常の美少女ゲームのプレイでは無視されていた、作者(汐子)の存在が前景化される。
それは、作中の行人、風子の視点と読者の視点の乖離をもたらす。
登場人物が感動と自由を感じている事象に、読者は作為と閉塞を感じる。

「クォンタム・ファミリーズ」を再読する読者は、往人と風子のことを、あらかじめ決められた一本道のルートを延々と繰り返すことを、「自由」と感じているただのキャラクター:「幽霊」であることを意識せざるを得ない。

「クォンタム・ファミリーズ」は、汐子という作中のキャラクターを作者の位置に前景化し、美少女ゲームにおける奇蹟・運命という様式美を逆手にとることで、キャラクター=「幽霊」というモチーフを読者に追体験させる。

友梨花と風子と暮らす中、往人はかつて自分が幼い女の子に性的暴行を働いたことを思い出す。
だが、それは誰の記憶だろうか。この並行世界の往人の記憶だろうか。あるいは元いた世界の自分と両方の記憶だろうか。元いた世界でも往人は同様の罪を犯したのだろうか。そもそもその記憶は正しいのだろうか?それは、作中では描かれない。往人にそれを確かめる術はない。ただ、往人はその記憶を自分の罪として引き受ける。

元いた世界と並行世界、この区別をつけるものは、記憶しかない。
だが記憶が、「突然どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的な」、そんな「幽霊」のようなものだとしたら。

元いた世界(現実)と並行世界(虚構)の区別は意味を為さない。現実だと信じる世界と虚構だと信じる世界、自分に関して扱う情報量がある閾値を超えた時、両者の区別は不可能になるのだろう。

第二部はミステリで言えば解決編、美少女ゲームでいうところのトゥルーエンドルートに当たる。
伏線に対する種明かしがされ、作品のテーマに対する応答がなされる。

もう一度、前提、問題提起、問題に対する解の条件を確認しておこう。

「クォンタム・ファミリーズ」は
情報テクノロジーの発展により、エクリチュールと意識の基本的機能が活性化して、虚構と現実の区別することが困難になり、「かもしれない」私に対する際限の無い欲望が生じることになった。「アイロニカルな没入」により、「かもしれない」私に対する際限の無い欲望から逃れることは困難である。そうした現代社会において、いかに人は尊厳を持って生きることが可能か。
という問いを投げかける。

その問いに対応するには少なくとも、
・今ここにないものを欲望するという人間の欲望の構造を踏まえていること
・継続性があること
という2つの条件を満たしている必要があることを確認したのだった。

第二部を簡単に要約すると、黒幕は友梨花で、真の黒幕が汐子だった、ということになる。

友梨花が欲望の回帰と転移を語っている部分が重要だ。これは、今ここにないものを欲望する、という人間の欲望の構造のパラフレーズである。

いずれの異なる時間線においても、友梨花の元に渚と往人がやってきて、友梨花は渚に対する悪意を掻き立てられる。そして二人を破滅へ至るよう仕向けてしまう。友梨花の悪意がもたらした行動の結果は、別の時間線の友梨花自身、往人、風子、理樹に影響を与え、かくして更なる因果が続いていく…。

反復される罪を友梨花は運命だという。

ここで示されるのは、
欲望とは、「突然どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的な」、そんな「幽霊」のような構造を持つということだ。

あるいは、友梨花にとっての往人、渚の二人もまた、「突然どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的な」、そんな一種の「幽霊」のようなものだということだ。

「クォンタム・ファミリーズ」は、往人、友梨花、風子、理樹の4人が互いが互いにとっての「幽霊」となって再帰し続ける物語である。表面的な欲望とは独立した自動的な反復。それを運命と呼ぶのならば、4人は運命によって結ばれた家族ということもできよう。

終盤、物語を作り上げたのは風子の汐子に宛てた手紙と読み聞かせた物語と汐子の「だいじょうぶ、だいじょうぶ。みんな暗くなったらおうち帰るんだから、汐ちゃんが連れていってあげるんだから」というセリフの間にある「誤配」であったことが示唆される。

説明を聞きながら、いずれの世界においても自分の運命が変わらないことを悟った時、往人は哄笑する。

汐子という「神」の存在によって「運命」が担保されていることを悟ったからではない。

そうではなくて、「突然どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的な、」そんな一種の「幽霊」のような構造によって、どのような選択をしたとしても4人の運命からは逃れられないと確信したからである。

「神」の位置にいるのは汐子ではない。そこには、だれも、何もいない。ただ、反復し、回帰する構造だけがある。このことを数学的正しさのように往人は悟ったのだ。

どのような行動をしたところで、真に欲望することからは逃れられない。一定の結果に収束し反復する。然るのちに、もっともらしい説明を作り出す。
表面的な欲望とは関係なく、突然に記憶が、あるいは、他者が再来し、自動的に運命へと引き戻す。

そうであればこそ、役割も義務も引き受ける必要はない。ただ、反復するものが指し示す語り得ぬもの、真に欲望するもの:目の前の家族を愛すればいい。それしかできない。

「幽霊」という構造への確信があればこそ、往人は汐子の入ったフラッシュメモリーを壊す。
往人は汐子の作った運命の円環を閉じることを望まない。
汐子なき無限の並行世界においても、この「量子家族」が反復されることを確信している。その無数に並列された一つ一つの物語でまた、自分が、この「幽霊の構造」について「覚醒」して、かけがえのない一度きりの生を何度でも送ることを希う。
故に、無限に繰り返される一直線の円環を否定するのだ。

「父」として、最初で最後、往人は風子と理樹に呼びかける。
「よけいなことを考えるな。運命のことを考えるな。だれを愛するべきなのか、だれに愛されるべきなのか、何も考えるな。そんなことを考えていたから世界は滅びたのだ。だれも幸せにならなかったのだ。」

これは、「アイロニカルな没入」で取り上げた、「並行世界のことを気にするなと言われても結果として、並行世界のことを気になっているかのように振舞ってしまう」話とは全く次元の違うことを言っている。むしろ、いかに考えて行動しても、私たちは結局、真の欲望(それを私たちは意識することはできない。)を反復してしまう(「アイロニカルな没入」もこの欲望の反復のバリエーションに過ぎない)のだから、考えるだけ無駄だと指摘しているのだ。

「…運命のその牢獄が汐子のせいなのであれば、汐子を消してしまえばいい。友梨花のせいなのであれば友梨花を消し、ぼくのせいならばぼくを消してしまえばいい。きみたちふたりにはそうする権利があるのだ。」

ここで、往人は、普遍的立法の枠を超える。自分の子供たちに親と汐子を消す権利があると主張する。これが、父の役割の引き受け方だと。

そして、往人は、別の生の可能性を犠牲にして、今あるこの偽物の世界を生きて行くことを提案し、肯定するよう呼びかける。

「…だからぼくは汐子を消去する。
ぼくたちが帰還する可能性を消去する。
きみたちの上に奇蹟を起こすために消去する。」

ここで用いられている「奇蹟」という言葉が、第二部以前に使われていた「奇蹟」と異なる意味合いであることは言うまでもないだろう。
後者は、汐子による介入により引き起こされた巡回する単一の「運命」であるのに対し、前者は、汐子なき世界でも、私たちの欲望の構造故に再帰してしまう(と往人が確信している)反復(=並行世界における「量子家族」の再会)である。
と、同時に「汐子という運命」から逃れられないと思い込んでいる二人の解放である。

「…汐子は死んだ。渚は死んだ。ぼくたちはようやくー。」

汐子のチップを壊したのに、「渚が死んだ。」と言っている点に注意しよう。
往人にとって、汐子も渚も、「どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的な」、「幽霊」である。 
例えば、往人の性犯罪の記憶のフラッシュバックは、汐子によって挿入されたものとは考えられないだろうか?

「…それでいい、それですべていいのだと彼は再び思った。ぼくたちには無限の時間が残されている。ぼくたちはこれからいくらでも話し合うことができる。今度覚醒するときには、もう新しい世界に送り込まれるのではない、あの友梨花とこの風子とこの理樹と、三歳の、ぼくの娘の愛すべき風子とともに、偽物だけど唯一の、間違えだらけだけどやり直しのできない人生を歩むのだ。」

汐子も渚もいない無限の並行世界で回帰する4人の家族。故に「クォンタム・ファミリーズ」。それぞれの並行世界でのただ一度きりの生。そのイメージを確信し、肯定して往人は息を引き取る。

「クォンタム・ファミリーズ」は、「父としての役割」と「現実」を引き受けることの困難さを描いた物語である。
往人は、反復する運命・欲望の構造を悟り、ただ愛するものを愛すると決める。
虚構とも現実とも区別のつかない生(現実)を肯定し、汐子による運命(虚構)を否定する。

最後に汐子i に即して、汐子について書きたい。
汐子iについては、「固有名」の性質に則って、汐子が書いたこの物語の二次創作であると東本人が発言している。

汐子iは、欲望の構造を踏まえた上でのいいとこ取り戦略:幻のトゥルーエンドとでもいうべきルートである。

ただし、往人自身も知ることできなかった真の欲望:かつて自分が幼い女の子に性的暴行を働いたことへの後悔 を特定し、早くからそれを焦点化することで、無用な反復を避けたたった一つの正解。のように解釈してはならない。

汐子iをたった一つの正解:トゥルーエンドルートと断じることは、汐子の作った物語(運命)を肯定し円環を閉じるに等しい。それ以外のルートが不正解ということになるからだ。

そもそも、往人がかつて自分が幼い女の子に性的暴行を働いた記憶自体が、汐子の創作ではないかという疑念はすでに述べた。

最も重要な点は、汐子の誕生が、「クォンタム・ファミリーズ」の内部では、説明されていないという点だ。

汐子は、風子が昔読んだ、往人が書いた童話の主人公を元に作った人工知能とされている。
だが、家族Ⅱで往人はそのような童話を書いたこと、そのような物語を否定する。

埋めがたい空白がある。
その空白にパラメーターを代入すると、物語が分岐し、伏線が回収され、それらしい解答が与えられるのだろう。

「クォンタム・ファミリーズ」とは、「貫世界通信」による報告(父、家族の章)と、風子の手紙(娘の章)とを、二〇六四年の人工知能:汐子が加筆、編集して作られた物語である。
(そのため、「貫世界通信」のパートは、汐子のセリフを除いて、報告書のように無味乾燥な文体になっている。)

汐子を除く登場人物は、テキスト上だけしか存在を確認できない、「どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的な」、「幽霊」である。

特権的地位にいるかに見える汐子もまた、どこから来たのかわからない人工知能であり、生まれなかったきょうだい、「どことも知れないところから再来し、誰だか知らない人から継承され、回帰という単純な形式によって人を苦しめ、あらゆる表面的欲望から独立していて、たえず反復的でそして自動的な」、「幽霊」である。

「クォンタム・ファミリーズ」におけるキャラクターは全て「幽霊」である。
それは、汐子iにおいても例外ではない。むしろ、全てが綺麗に配列され、生まれなかったきょうだいの名が入れ替わっているその構造によって、最も先鋭化される。
生身の人間は、汐子なき後の並行世界にいる。そしてそれは、語り得ない。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。みんな暗くなったらおうち帰るんだから、汐ちゃんが連れていってあげるんだから」
ただ、作品全体を通じて、家族を呼ぶ幼子の声が、ものがなしく響いている。

#クォンタム・ファミリーズ  #東浩紀 #批評 #感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?