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#28 謙遜は美徳じゃないね ~真っ直ぐのありがとう~


「謙遜」をやりすぎて、いつの間にか自分や家族のことをこき下ろしてしまうことがある。
私はなぜだかよくやっていたと思う。


イギリス人が自分の子どもを褒められると、”Yes! She is so lovely!” (そうなの!あの子はほんとにいい子よ) という風に、必ずと言っていいほど肯定で返してくる。

そんな姿に、最初の頃はびっくりした。今では、あんなにびっくりした自分のほうに驚いてしまうのだが‥‥


英語にCounteract (カウンターアクト)という言葉がある。あるものの作用に反するものを持ってきて、中和したり妨害したりすることである。

人から褒められた時、私はまさにそのようなことを無意識でやってしまう。


例えば、家のインテリアが素敵だと言われれば「収拾のつかないガラクタばかりです」と答え、

黒髪が健康的で美しいと褒められれば「硬くてボリュームがあって大変ですよ」と言わずにはおれない。

日本人の中でも、「それは当たり前」と言われる人や、『卑屈だ』と感じられる人、反応は様々だと思う。


自分のことを褒められると居心地が悪いので、少し謙遜した言葉を返してしまう。これはまあよくある話。
けれども自分の家族を褒めてもらって、『賞賛を受けている場合ではない。なんか欠点を伝えて中和しなくっちゃ』という意識が働くのは何なのだろう。

私は、家族はやはり自分の一部というように捉えがちだからだと思っている。


私が子どもの頃は、母と一緒に居ると、やはり私のことを褒めてくださる方もあった。
すると母は必ず「いやいや~、この子は、」で始まって、朝起こすのに苦労するだとか、部屋が片づけられないとか、返すのが常だった。

それが日本全体に言えたことなのか北陸の地方性ということなのか私には分からない。ただ、褒められればこきおろして差し出す構図は必ずあったと思っている。

もちろん、子どもながらにも、母は社交辞令で謙遜していると理解していたし、人は社会でこうして謙遜するもなのだと学んでもいた。

そんなものだと分かっていても、親のそんな言葉が、潜在意識に刷り込まれて、『自分とはそういうもの』になっていったと思う。自己肯定感は幼少期に親から受けた経験に左右されるというではないか。

さて『親は娘を人前で否定すべきではなかった』と思うならば、自分自身に対しても同じことがいえるのかもしれない。

親の『行き過ぎた謙遜』を残念がっても、土地柄もあっただろうし、仕方がなかったのだろう。ならば、私が今から取り組めることは残っているはずだ。

自分を否定する言葉を使わないことは大切なのじゃないだろうか。


謙虚に生きることは美しいと思う。かといって、評価に対して「私はそのような賛辞に値する者ではない」と打ち消すのは違う。

それは一見、謙虚さのようでいて、ある意味では人から言われたことを受け取らない傲慢さでもある。

謙遜のように見えているものに、卑屈や傲慢さえ潜むとしたなら、そんなものはもう要らないと言いたい。

人から褒めてもらって、思わず「そんなことない」と言いそうになったら、グッとそれを吞み込んで、

私は素直を選ぶ。

「ありがとう、ありがとう」と

素直にまっすぐに喜ぶ人になりたい。

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