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#196 わしが憶えとったる!


私は母とお喋りをするのが好きだ。
ご飯を食べながら、お茶を飲んでお菓子に手を伸ばしながら、ただただ二人で喋り続ける。
もちろん、私が日本に帰省できる何年かに一度のことだから、話しても話し足りない。

母は大家族の中で使用人のような立ち位置で暮らした。こういうのを見ていない人には想像がつかないと思う。田舎では、かくも『嫁』が軽んじられるケースが多かったのだ。
だから私は「長男とは結婚しない」などという誓いを心に立てて大きくなった。
遠慮して我慢して、言いたいことの言えない人生はさぞ辛かろうと思ったし、家庭内に『苦手な人』が居る母が幸せそうには見えなかった。

祖父母を限界まで家で介護し、見送った後十年以上経つ今、昔辛かった話は出ても、恨みがましい話にはならない。祖母とは最終的には固い絆で、互いに泣きながら感謝し合えたという話も聞いている。

この母は遠慮する人のいなくなった現在の暮しを『この世の春』といわんばかりに謳歌している。
そりゃあ歳取って不自由になっていることは数えきれないが、「毎日、今日が人生で一番幸せな日と思って生きている」という母。そんな心の状態でいてくれることが、手を合わせたいほどありがたい。

読んでくださった方にはお馴染みのあの母です。毛糸があれば編み物をし、なければご機嫌で図書館通いをしています。



そんな母に変化が起きた。

去年の夏、実家にお世話になった二週間ほどの間に、ちょっと愕然とすることを何度か経験している。

例えば、あの頃まだ日本生活を満喫していた次男を、夫と一緒に訪ねた話をした。会話は相変わらず弾んだ。
母にとっては、六人の孫の中では最後のBABYだった「あの子がねぇ‥‥」と目を細める話もたくさんあった。沖縄の小さな離島で、息子が村人の皆さんに「父と母です」と紹介してくれた話、SUPやスノーケルの借り切りガイドツアーをしてもらった話‥‥
要は我が子の自慢話なのだろうが、身内に話すのはこちらも嬉しいし、聴いている母も楽しそうだった。
ところが、翌日母が訊いてきたのだ。「そういえば、○○ちゃん(次男の名)は今、イギリスにおるんか?大学か?」
‥‥‥

イギリスも大学も、筋の通らないことは言っていない。ただ前日の会話の内容を全く憶えていなかったことを除けば‥‥

このようなことが何度かあり、日本を去る際には、あまり体が強くなくて家の中でしか動けない方の父に母のことをお願いするありさまだった。

「来年(今年のこと)もまた来るからね!」
そう言い残して帰って来たが、物価の爆上がりで生活が苦しい(笑)
旅費も上がり、今年は帰れない、が現実となっている。(不甲斐ない‥‥)


電話しても自分の体の不調と薬とドクターの話しかしない父。しかも耳が遠いと来ている。以前は父と替わるか?と訊かれてもやんわり「よろしくつたえて」と言うことが多かった。

その父と時々、電話で話すようになった。大きな声をあげて。

最近母に、長年書き続けてきた自分の苗字の漢字が、どうしても思い出せないことがあったのだという。
母は悔しくて怖くてシクシクと泣いたのだという。

驚くのはそこからだ。あの父が「よしよし‥‥と子どもをなだめるように頭を撫でてやった」のだと言う。

母は、もともと思い込みが激しいところがあり、父に対しても、自分がすっかり忘れていながら、こうだと言い切るところがあるようだ。
母に叱られてばかりだと、言った父。
どちらが正しいとかの話でなく、交友関係をあまり持たない父が、時々愚痴を聴いてあげる相手が必要だったんだと知った。


頭を撫でてもらった当の本人は、そんなこと憶えていない。
電話で私に「とうとう頭がカチ壊れてきた」と嘆きながら、
「自分のなまえも忘れてしもうかもしれん」と父に言った時のことを話す。

「とうちゃん、なんてゆうたと思う?」と可笑しそうに言う母。
父はこう答えたそうだ。

「心配すんな。おまえが忘れても、ワシが憶えとったる」


こんな会話がいつまでも続きますように‥‥ そう祈ることしかできない。



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