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『多様性』と『発達障害』の話

 ツバメコーヒーさんで開催された「君は君の人生の主役になれ」の刊行記念トークイベントを無料公開してくださったので、拝聴させて頂きました。どのお話しにも気づきがあり、胸がずっとザワザワしっぱなし。その中でも質疑応答で【多様性】【発達障害】について、鳥羽さんがお話されたところを文字にしてみました。

私は子どもを教育している意識が薄い。
自由に思ったことをやらせてもらってる。
そこに企てはない感じがあって、でも教育業というのは基本的に、企てて導くのが仕事なんでそうすると多様性というものにもどうしてもキラキラとした何かプラスの作用みたいなものが要請される。その中で導く方向性は決まってくる。いつの間にか限定される。それで、もうそこから外される人が出てきても、多様性ぶるっていう感じになっていくのがあって、教育の世界でできることは少ないかもしれないですけど、やっぱりシンプルになるべく構造をメタでみる、つまり俯瞰してみるという見かた自体を伝えていく。今こうして見てるけど、でもこれってもう少し後ろから引いてみるとこうなるよ、さらに引いてみるとこうなるよと。そういう見かたがある。いま見ている見かたっていうのはすごく限定された偏った見かたでっていう、見かた自体のアプローチっていうのは教育界でもできることだと思うんですよね。

多様性の問題っていうのは、すごく難しいところで。やっぱり多様性って言われるようになってすごくつらいなと私が感じているのは、発達障害の問題があって、もちろん発達障害って、そうやって名前がつくことですごく助かった親子がいるのをたくさん見てきました。この子にこう接すればいいというのがわかって、それで子どもが回復(回復って言ったら違うな)、子どもたちが力を取り戻す場面っていうのを見てきました。
 あの、でも一方で昔だったら、私が子どもの時だったら(中略)生の関係性がリアルにぶつかってた。今は発達障害があるから配慮しなくてはいけないという優しさがはじめから学級とかにデフォルトとして設定されるとどうなるかというと逆に理解しなくてよくなるんですよね。はじめからこの子はああいう子だから仕方がない、で終わっちゃうんです。それを多様性とか理解とか言っていいのか、それ全然、理解じゃないと思った。しようともしない、その居直りこそが多様性ってこういう意味だったんだなと思ったんです。そういうのを見てきて、なるほど、それぞれ棲み分けて、それぞれ傷つかないようにする、でもそうするといちばん傷つかないのは、結局マジョリティ側であって、マイノリティ側はどんどんどんどん寂しくなっていくんだなと思ったんです。なので、多様性の問題はすごくシビアな問題だと思っています。

そういう子、で終わっちゃうんだけど、いつまでもどこまでも個別性が残るっていうところがすぐ忘れられるんですよね。そこでしかないのにむしろ。それがすごく問題としてあると思います。

本当は感想をまとめたいのだけれど、自己分析になってしまいました。よかったらどうぞ。

「わたし、企てるのが嫌なんだ!」

と、気がつきました。我が子の12歳と16歳の子育ての中でも(小さい頃は特に)企てて育ててきました。仕事としている療育の中でテクニック的に使っていました。でも、最近はなんだか嘘くさくて出てこないんですよね、テクニック的なものが…なんだか信用できないからです。そうです、企てるのが嫌いなんです。企てではなく、人と関わりを持ちたいのです。(企ての必要性も理解しています。)

発達障害に近寄ってみて

 私は15年くらい、進学先を特別支援学校にすることが多い未就学児の子どもたちや、特別支援学校に行っている小学生と関わらせてもらう仕事をしていました。そこでは、一般的な構造化や視覚支援等の療育ではなく、丁寧な【保育】をしていました。その中で、子ども達はのびのびと育ち合い、大人も学ぶことができていました。しかしこのような環境は特別であり、私は違う環境で生きている人(子ども)を見てみることに興味を持ちました。正解を知ってるけれど、違う解き方を見てみて、より解釈を深くするためなのかもしれません。それで、今の【発達障害】に特化した療育の現場で仕事をすることとなりました。その中で私の発見としては、発達障害と言われている子ども達の身体の特徴でありそこへのアプローチでの変化なのですがこれはまたの機会にして…【発達障害に近寄ってみて】感じたことは、療育者が丁寧で優しいということです。そして、私がその世界に慣れつつあるということです。反面、発達障害と言われてる子に対してはだいたい【いつもの私】として過ごしています。これは、もう変わらないし、今のところ変わらなくてもよいと思ってる…みたいです。自分のことなのに変ですが、もしかしたらその部分、できるだけ生の関係性でいることを通して子どもたちに伝えたいと感じているのかもしれませんね。

「あっ、近寄りすぎてるかも」

と、鳥羽さんのお話を聞いての気づき。療育の現場にいるとそこでのスタッフ間の認識のすり合わせがあり、苦しい時があります。「んん?」って思っても、言語化できないことも多々あります。それは、私の力不足なのでとりあえず取り込んで、また学んでいきますが、これまた療育の世界の認識であり、学校では学校の保育園には保育園の認識があるんですよね。(最近も食事の場面であったので、またの機会に…。)
 どっぷりハマりすぎてはいけない。俯瞰が必要ですね。俯瞰ってエネルギーがいりますね。

多様性の多様性

 我が子達は統合保育といわれる重度から軽度のいわゆる障害がある子どもたちと共に育ってきました。ケンカもたくさんしてきたけど、今でも深いところでは繫がっていると思います。【多様性】って言葉を考えたこともないだろうけど、たぶん【多様性】を理解していると思います。自分とちゃんと繫がっているところで感じているんじゃないかな?それに比べて、私は障害について勉強したことで、わかったこともあるし、逆に棲み分けたところもあるのかもしれない…と感じるのです。

【ひより雨という場所】
 

 この秋からひより雨という教室を始めました。
ここは【企て】もないし【個別性】をみるところだったことに気がつきました! 
 私自身が大切だと思うことをやってみます。私もココがあることでしっかり立っていられます。

 ツバメコーヒ田中さん、鳥羽さんありがとうございました。



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