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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#101

19 予算紛議 (11)

 陸軍は薩摩が大勢を占めていたことから、山縣はその進退が問題になっていた。馨は、西郷隆盛と大隈の力も借りて、山縣の処分が寛大になるよう調整をした。とりあえず軍籍はそのままに陸軍大輔の辞任で済ますことができた。
 このことで馨は、以来表立って山縣の支援は請けられず、太政官で孤立を深めることになった。
 誰も入れるなと怒鳴っては、自分の執務室にこもった。
 そして机の上に置いた木戸からの文を取り出した。
「大体、最近の西洋化は日本の事情を考えない表面的なもので、それで良しとする風潮はいかがななものかと考える。そして大蔵省の秩禄処分案では厳しすぎる。もっとゆるくしておき、士族の扶助事業を明文化するべきだと書いていた。それに先日の文に回答をもらってもいないが」など書かれていた。また遊女の解放も玉石混交の営業はいかがなものかとあったり、開明化に対する疑問、最後はほとんど小言ばかり連なっていた。
「わしは木戸さんからも疎まれるようになったんか」
 そんな思いが浮かんで消えて行くことはなかった。なぜこのような文を受け取らねばならないのかと思った。
 自分の味方は大隈と大蔵省の官員ぐらいだ。馨は博文宛の手紙でぼやいていた。
 その中で官から身を引いた上は一商人になりたいと書いていた。また養子の約束をしていた勇吉は梅さんが引き取っていったこと。落ち着いたところで自分と武さんが、勇吉のお披露目の食事会によんでいただいき、とても嬉しかったとしたためた。
 今度は、先だっての木戸からの文に苛立ちを隠せなくなっていた。
「開化にはやるひとをアラビア馬と嘲りも含んで言うようですが、もはやこの国はアラビヤ馬ばかりで、それを抑える自分はもう開明派とは言えない存在になっています。やりきれないことも多く、この上はこの職を辞するつもりです。気に触ることが多いのならば、こちらに頼まれ、三井に預けている給金もお返しします。」
ほとんど絶交のような手紙を木戸に書いていた。
 もはや妬まれ疎まれ謗られた中で、大蔵省を取り仕切っていくことに意味を見いだせなくなっていた。こうして出仕することをやめてしまった。
 すると大蔵省の業務が滞り、運営も捗らなくなっていった。危機感をおぼえた三条達は、渋沢や陸奥、山縣を使って、調整と説得に乗りだした。
 どうにか出仕をするようになったものの、太政官では大きな変革が起きていた。大木と江藤が参議になった。大隈しても、その場しのぎの対処が多く見られ、馨は失望することが多くなっていた。これで正院では、馨は大蔵省の言い分は通らなくなってしまったと考えざるを得なかった。
 地租改正を目指して、地方官会議を開いた。一部では地方官を馨が味方につけて、政策的な突破口を開こうとしたとも言われた。確かに大蔵省を賛同する県令はいた。だが一部でしかなかった。殆どは自分の県の利害を正面に出しており、話し合いには遠いものにしかならなかった。ただ地方官を大蔵省に集め、事務の決裁方法を見せ、学ばせたことは中央との信頼感を作っていった。こうして大蔵省で始められた決裁方法は、地方でも行われるようになっていった。
 ただもう、自分の意見が通ることはないと思った馨は、今度こそ辞任しようと考えていた。

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