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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#99

19 予算紛議(9)

 馨には重大な変化も起こっていた。母婦佐子が亡くなった。父親の厳しさとは違い母親からは、ずいぶん甘やかされていた。金の無心は日常茶飯事だった。そんな母に悲しい思いをさせたのは、長州藩での内訌の中心にいたことだったろう。膾切りにされ死んで当然のところを、たまたま居合わせた外科手術のできる医者に救われた。そのときには兄に介錯を頼んだところ、母が身を呈したのだった。その後の座敷牢で斬首を待つ状態での、心を込めた差し入れ。
「何度わしは、母上から命をもらったのだろうな」
「凛としてお優しい御母上でしたね」
「やっと落ち着いて孝行するつもりじゃったが」
「ひとつ屋根の下お暮らしになったことで、ご安心されたはず」
「じゃが東京で寂しい思いをさせたのではないかと」
「上京された皆様も良くお見舞いにお越しでした」
「何よりもお前様がたいそうご自慢で」
 馨を力づけようとしていた武子も、流石に泣き笑いの表情になっていた。その武子を見た馨は泣き崩れていた。武子にはその馨を抱きとめて、背中をさすることしかできなかった。
 家のものが弔問客の来訪を告げた。馨は奥に一旦下がり、顔を洗い出直した。武子は馨が戻ってきたところで、奥に下がっていった。来客は祭壇の前に出てくると、喪主である馨に挨拶をした。
「元徳公のお心遣いで参りました。この度はご愁傷様でございます」
あっと思った馨はすでに、泣き笑いの表情を浮かべていた。
「この度はありがとうございます。元徳公に感謝のお言葉お伝え下さい」
そう答えると、続けて言った。
「杉が来てくれるとは。それにしても久しいの」
「すまん。聞多。なかなか落ち着かんかった。訃報が高輪に届いたところ、ちょうどおって、元徳様が行けとおっしゃってくださりやっとじゃ」
「宮内省に出仕とか」
「あぁそのへんが、僕にはあっていると思っての。あまり頼りにはならんが、気晴らしにはなるぞ」
「あぁ助かる。そうじゃ」
馨はそう言うと、たって人を呼びに行かせた。武子がやってくると紹介した。
「ワイフじゃ。武子と申す」
「武さん、長州の昔からの友人の杉孫七郎じゃ。東京に出てきて宮内省にお勤めと」
「武子と申します。よろしくお願い申します」
「武子さん、こちらこそ。僕は聞多を頼らにゃいかんゆえ、ご迷惑かけるかもしれん。まずは、よろしくお願いします」
「なにかお持ちいたします。お待ちください」
武子は奥に下がっていった。
「気になさらんでください」
「まあええ。気を使ったんじゃろ」
「それにしても、ええ奥方様じゃ」
「じゃろ。恋女房じゃ」
「思ったより元気で良かった」
「おぬしの顔を見たからじゃ」
しばらく二人は話をして、杉は帰っていった。
「杉様、おいでなされてようございました。これもお母上のご縁でございますな」
「そうじゃな」
 馨は少し穏やかな顔になっていた。ここにきてやっと俊輔とも違う、気のおけない友人が現れたのだ。

 母の喪中も開けて出仕をした馨を待ち受けていたように、佐伯が大量の書類を運んできた。
「大輔のお休みの間の様々な業務についての書類です。あぁここにオリエンタルバンクからのニューイヤーパーティの招待状がございます。一年とは早いものですね。あちらは12月で一年なのですね。こちらの来年は13月ありますが」
「佐伯、もう一度言ってくれんか」
「オリエンタルバンクのニューイヤーパーティのことですか」
「暦のことじゃ」
「あぁ、来年は閏月があることですね」
「西洋の暦と日本の暦にひと月の差が、あるっちゅうことじゃな。今まで気が付かんかった。そうじゃ。暦を変えるぞ。渋沢を呼んでくれ」
 佐伯は馨の突然の反応に驚きながらも、今度は何が起こるのかと楽しみになってきていた。

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