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【恋愛小説】私のために綴る物語(5)

第一章 10年ぶり(5)

 多香子たちは三塁側の内野指定席を取っていたので、慌てていく必要もなかった。ただこうして野球を観戦するのも、久しぶりなので守備練習の時間から入っていった。

「潜り込んで三塁側のベンチを観るか、のんびり応援するかちょっと考えるよね」
 多香子は席について見渡しながら言った。ここならピッチャーもキャッチャーもよく見えそうだった。
「今日は一眼レフカメラを持ってこなかったのか」
 史之が多香子の荷物を見ていた。多香子はカメラにも興味を持っていて、試合観戦の道具の一つだった。
「今日は日帰りだから、手荷物を少なめにしたかったから。秘密兵器も手に入れたし」
「秘密兵器?」
 史之は多香子の秘密兵器という言い方が面白かったので、つい聞き直していた。
「これ、800mmまであるんだよ。撮影できる望遠鏡って言う物」
「へぇ。片手で持てるんだ」
「これとスマホで足りるかなって思って」
「相変わらず、新しい物好きだな」
「これくらいいいじゃない」
 多香子がむくれて見せていた。

 服とかに金をかけない分、好きなことには使うんだなぁと改めて史之は考えていた。公務員という職業柄ストレスも溜まるのだろう。そういえば、土日が休みなのと有給休暇が取りやすいだけが取り柄の仕事だって、言っていたのを思い出していた。

「面白いもの見つけるなって感心していたんだ」
「でしょう」
 多香子は自慢げに笑っていた。

 5回の整地作業の時、なんとなくテレビでみていた塚嶺は、三塁側の席に多香子をみた気がしていた。
 隣に男が座っているのもわかった。きっとその男が多香子の恋人なのだと思った。すると、妄想が頭の中で繰り広げられていた。どうしても、その男に抱かれて喘ぐ多香子の姿が離れなくなってしまった。
 当然男の顔は見えない、妄想なんてそういうものだ。
「わぁ。俺は何してるんだ」
 それでも、あの一瞬の気持ちの繋がりは忘れられなかった。ここで諦めることなどできない。
 ため息を付きながら、今度の水曜日に付き合って欲しいところがある。一人では行きにくいところだし、すでにチケット代を払ってしまったので、助けると思ってきてほしいとメールを書いた。
 夜の7時過ぎだけど、池袋のキャラクターカフェだけなので、安心して欲しい。食事だけで、ぜひとも限定グッズが欲しいのだと付け加えていた。

 試合は5−3で福岡が勝った。

 野球場はドームで福岡が勝つと花火が打ち上げられたり、ドームの屋根が開くイベントがある。たまにしか来られないから、セレモニーを観て帰ろうと史之が言った。多香子は笑って言った。

「全く、応援しているチームが負けたっていうのに、その方が楽しいってどうかしてる」
「まぁそれもしょうがないな。実は僕、これ初めて観るんだ」
「えっ、実は勝率のいい人なの」
「なかなか最後まで残って観るってのが、できなかっただけだよ」
「なぁんだぁ」

 多香子は大笑いをしていた。

「そんなに千葉が、勝っている試合多かったって、考えちゃった」
「さて、とりあえず博多駅に帰るぞ」
「やっぱり、そこのホテルに泊まりたかったなぁ」
 この球場はショッピングモールもホテルも敷地の中にある。ホテルからのけしきもなかなかいい。
「今度は泊まろう。野球は帰りの時間考えるの大変だしね」

 混雑した地下鉄に乗り、博多駅で降りると夕食を食べられるところを探した。結局博多に来たときには、よく行く和食居酒屋に入った。

「あっ呼子のイカがある。イカの活き造りと鯵の押し寿司と……。えーとじゃこ天と冷やしトマトください」
「あのお飲み物は」
「あ、すいません。ウーロン茶を2つください」
 史之が飲み物を頼んでいた。
「あの、イカの活き造りって、ゲソとか天ぷらにしてもらえるんですか」
「はい、お刺身の部分以外を天ぷらにしますので、お声をかけてください」
 多香子はイカに随分こだわっているようだった。
「良かったな。イカが食べられて」
「こっちにきたら、食べたい物の一つだし。イカさんにごめんなさい、美味しくいただきますって。みみとかの天ぷらもね」

 美味しいものを見ておしゃべりになる多香子を前にすると、普段口数が少ないと言われる史之も陽気に話すことができた。

 じゃこ天とトマト、待ちに待ったイカが運ばれてきた。ごちそうを目の前にして、多香子の顔が緩んでいた。
「やっぱり、焼酎が呑みたかったなぁ」
「今日は我慢」
 史之は軽く睨んでみた。
「うっ。史くんが怖い。ウーロン茶で我慢します」
 そう言って、イカの活き造りに箸を伸ばした。
「すごい、コリコリする。甘い」
「本当だ。イカってこんなに美味かったんだな」
「よし今度は呼子に足を伸ばそう。うん、まって、福岡に宿泊しように変更」
「酒も楽しもうって」
「そう、また史くんに睨まれるのはごめんだし」

 あっという間に刺し身を平らげて、天ぷらを頼んでいた。鰺の押し寿司と揃って、天ぷらを食べるとさすがにお腹がいっぱいになった。

「史くんは心残りない?」
「大丈夫。十分腹いっぱいになった」
「良かった」

 満面の笑みの多香子を見ることで、自分の心もお腹いっぱいだよと言いたかった。多香子は店員を呼び会計を頼んでいた。伝票を渡されると、そのまま会計をしていた。二人で、ごちそうさまと声をかけて店をあとにした。

「空港ではあまり時間がないけど良いね」
「お土産を買う必要もないし、飛行機に乗ってかえるだけ」
 多香子のその言葉通り、福岡空港から羽田についた。

 車に乗り、多香子の家の近くにつけると、どちらからともなくキスをした。唇を離して、見つめ合うと史之は抱きしめていた。多香子は史之の頭をなでて、史之の手が離れると「連絡するね。それじゃぁ、また」と車を降りていった。

 そのまま家に向かって歩いて行く姿を、史之はバックミラーから眺めていた。視界から消えると車を動かしていった。

 車の音がすると、多香子は振り向いて、去っていく姿を眺めていた。


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