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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#105

20 辞職とビジネスと政変と(3)

 その頃、正院では大蔵省の縮小案が議決されていた。内閣が設置され、参議が法令の作成や予算の審議を行うことになった。
 そのため大蔵省の内局の調査・監査部門が正院の内史に移管されることになった。これは馨の全面的な敗北を意味していた。これを受けて馨は辞任願を三条実美のもとに提出した。
「渋沢の言う通りになったの。おぬしは辞めるのをやめろ」
「井上さん、それは以前のお約束を反故にするおつもりですか」
「以前の約束じゃと」
「ともに、国を富ませる策を指南していこう。もしだめだったら共に辞めよう。そうおっしゃったではないですか」
「じゃが、首脳二人で共に辞めるというのも、いかがなものかと」
「そんなこと。気になさることではないです」
「そうかの。で、渋沢はやめて何をするつもりか。やはり銀行か」
「はい、できたばかりの第一銀行でやってくれないかと言う話が来ました。井上さんは何を」
「わしはプライベートビジネスじゃ。商売をしていければと思うちょる。外貨を稼がねばならぬからの」
「それは、面白そうですね。私はもう一つ最後の仕事をして辞めますので」
「そうか、わしはこれで大隈に挨拶をして、終わりじゃ」
「ありがとうございます。またこれからもよろしくお願いします」
「わしのほうも、色々とすまなかった。これからもよろしゅうな」
 それぞれの道を進む事になるが、今後のことも誓って別れた。馨はもうひとり、道を違えることを知らせる相手に会いに行った。
「大隈さん、居るか」
「馨、その荷物は」
「あぁこれか、片付けた荷物の残りじゃ」
「本当に辞めるのか」
「あぁ。じゃがこれからわしは商売をしよう思うちょる。だから、今後のことも頼みたくてご挨拶に参った次第じゃ」
「渋沢も一緒か」
「そうじゃな。その点はすまんと思うとる。吉田も戻ってくるし、大久保さんも居ろう。大蔵の仕事は大隈さんがすることになるだろうが、寮の頭は大丈夫じゃろ」
 気持ちにけりが付いたのか、馨は最近見ない笑顔で答えていた。それを見て、大隈は何も言えなくなっていた。
「わかった」
「それでは、これまで色々すまんかった。できればこれからもよろしゅう願いたいものじゃ」
 馨は右手を差し出していた。大隈はその手を右手で、しっかりと握り返していた。
「こちらこそ」
「それでは」
 右手を離すと馨はあるきだした。
 大隈はその後姿を見送りながら、「大隈さんか」とつぶやいていた。

 日本政府の財政の現状にについて書かれた記事が日本の新聞と英字新聞に掲載された。予算の詳しい数字も並び、このままでは1000万も赤字になるというものだった。その文章を書いたのは元大蔵大輔井上馨と渋沢栄一と記名があった。以前芳川と三人でこれを新聞に載せようと言い合ったものが世に出たのだ。
 これは、政府を震撼させるのに十分だった。司法省と江藤は、政府の機密を漏らしたとして、馨と渋沢を捕縛するべきだと言い出した。これは顕官であった者を捕縛するのは、慎重にするべきと言う論があり、そこまでのことは行われなかった。
 しかし、馨が大蔵省を経由して新聞社に送付させたことから、その担当の主任の佐伯と、実際に切手等を用意した事務員が、聴取を受けていた。
 佐伯は、取調室に拷問用の石が置かれているのを見て、あれを使って白状させる事があるのだと思った。今回はなにも後ろめたいことはないので、そのまま話すと決めていた。
 しかし、切手を貼っただけの事務員まで聴取されることには腹立たしさを感じていた。二週間ほど拘束されたが特別なことはなく、開放されて日常に戻されていた。
 馨の方は裁判に召集されていた。じつは渋沢も召集されたが手続きをして出席しなかった。馨は出席して持論をぶちまけた。
「なにをもって、予算を国家の機密とされるのか。予算は民からの税金が基礎となっております。民は予算について知る必要がございます。このことは諸外国にとって当然のことでございます。日本がそれをできぬことこそ問題でございます」
 この言い分が効いたのか、馨と渋沢はわずかな額の罰金刑で済んだ。
 そして、免職も決定し、公務とは縁が切れたのだった。
 大蔵省の方はもっと深刻だった。予算収入について計算のし直しが命じられ、馨と渋沢の意見に対して反論をすることになった。
 予算の赤字は深刻なことはないという数字が出され、民対して安心させることができた。
 結局明治6年の予算は7000万円規模の収入になった。この差は馨たちの計算の基礎の米価が低すぎたことにある。大隈達の再計算もここまでの額は予想できていなかった。
 統計データの黎明期の難しさがここにあった。そして、馨の持論通りこの後会計表は政府発表されるようになる。

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