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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#74

15 運命のひと(5)

 聞多が東京にいるうちにまとめてしまおうということになり、婚礼の支度が至急行われた。近くにいる友人知人の出席のもと、聞多と武子が夫婦になったことを、知らしめるくらいでというものだった。
 大隈の屋敷の広間に皆が集まり、いざ婚礼を始めようとした時、意外な人物がやってきた。これまで、薩摩に帰ったまま、連絡すらなかった中井弘が現れたのだ。
「大隈さん久しぶりじゃ。今日はなにかあっとな」
「はぁ、それが、井上と武子さんの婚礼をするのである」
「ふぅん。なるほどな。武子さんと井上さんにご挨拶をしたい」
「えっそれは」
「大丈夫じゃ。壊すわけじゃなか。お祝いを言うだけじゃ」
 中井がそう言うので、大隈はまず武子に会わせることにした。
「武子さん、おめでとう。相手が井上さんとは驚いた。最低で最高なお人じゃ」
「皆様からそう言われます。気短なご気性と派手な道楽ぶりと、親切でどこかお人好し、ご野心もあるのかないのか。でも、それくらい面白いお方とならば飽きることはございませんよね」
どこか自信を持った笑みは、艶やかさを増したようだった。
「そうでなくては下野から呼び出した意味がなか。おいから面白いお祝いの品をあげもんそ」
「ありがとうございます。いつぞやの中井さんのお言葉通り、私が己自身で選んだ伴侶でごさいます」
「そうであったな。おいがつまらん相手と夫婦になって、何がおもしてかといったことん結果か」
中井は不敵な笑みを浮かべて、聞多の待つ部屋に行った。
「井上さ。この度はおめでとうございます。武子どんを大事にしたもんせ」
「それは、もちろんじゃ」
「自分は武子どんにないもできらんやった。せめてなにかしちゃりたかち思うたとじゃが。井上どん、約束をしていただこう。武子どんとは終生夫婦として生きっちゅうこっを。そいを書状としてお誓いいただけんもとな」
中井からの申し出には少し驚いた。ふと頭の中を西洋の婚礼の様子がよぎった。神に死が分かつまで別れないと誓うのだった。
「わかった。誓文を書こう。大隈さんに準備を」
「料紙と矢立がある。こいで書いてくれんか」
「それでは」
 そう言うと聞多は用意された料紙に書き出した。私、井上聞多は岩松武子を妻とし、終生添い遂げることをお誓いします。
「これでええじゃろ」
「上等じゃ」
そう言って中井は聞多の前を去って、武子の前に戻った。
「武子さん、これがおいからのお祝いの品じゃ」
「これは」
「井上さに書いてもろうた誓文や。武子どんと一生添い遂ぐっと誓うちょっ。大隈どんにでも預かってもろうたやよかち思う」
「ありがとうございます。大事にします」
「それじゃおいは招かざる客のようじゃ。これにて去ることにしよう」
そう言って、中井は大隈屋敷を出ていった。婚礼はその後何事もなかったかのように無事行われた。晴れて夫婦となった聞多と武子だが、聞多は大阪に帰ることになっており、しばらくは離れて暮らすことにした。
 大阪に帰った聞多は造幣頭の仕事と大蔵大丞と兼ねており、相変わらず川向うから造幣寮を眺めて大声で怒鳴ったりしながら仕事を進めていた。最も昼間は改造した小舟で川向うの造幣寮で建築の進行や事務処理を行っていた。キンドルをうまく使えるのは相変わらず聞多くらいしかなかった。
 ある時陸奥宗光がやってきて、まだ早いけれど東京へのご栄転のお祝いをするので、来て欲しいところがあるといった。その指定された茶屋に行くと待っていたのは、陸奥だけでなく三井の番頭の三野村利左衛門がいた。
「井上さん、こちらの三野村がぜひともお引き合わせ頂きたいと申すので、このような場を持たせてもらいました」
「おぬしが三井の三野村か。一度会うてみたかったんじゃ」
「私もでございます。井上様のお噂は常々」
「どうせ、マシな話ではなかろう」
「まぁお遊びも豪快ならお仕事も豪快と」
「褒められておるのか微妙じゃの」
「世の中を変えていきたいとのお志をお持ちと」
「そんな大層なものでないがの。商人もあり方を変える必要があると思うちょる」
「それは、私も同じでございます」
そのあと色々話をして別れた。三井の番頭とこうして知り合えたのは面白いことだと思った。陸奥には感謝をしなくてはいけない。
 伊藤博文の財政調査のための訪米が近づいていた。聞多は引き継ぎと送別会をすると言うので上京していた。伊藤の屋敷で宴会があり、遊びにいった。
「聞多、来てくれて嬉しいよ。今日はゆっくり二人でというわけじゃくて、面白い奴を呼んでいるんじゃ」
「ふーん誰じゃ」
「大隈さんからも聞いちょるだろ。慶喜公につかえていた元幕臣の話」
「駿府で商会所を作って、商売をして儲けた男か」
「そうだ、渋沢栄一という男じゃ。他にも通訳として同行予定の、福地というのも来ておる」
「それは楽しみじゃ。実際仕事をする前に一度会うてみたいと思うていた。改正掛のものだな」
「渋沢様お着きになりました」
その声を聴くと聞多は玄関まで行った。玄関で案内をしようとしていた女中が聞多に気づいて、渋沢を紹介していた。
「井上様、渋沢様がお着きでございます」
「おう、おぬしが渋沢か。わしは井上聞多じゃ」
 聞多は玄関で靴を脱ごうとしている渋沢を見下ろしながら言った。
「これは、井上様。私は大蔵省で、この度井上様とご一緒させて頂く、渋沢栄一と申します。今後とも、よろしくお願いいたします」
慌てて向き直し挨拶を言う渋沢を、聞多は腕を組んで笑いながら聞いていた。もっとも渋沢は、こちらは礼をしているのに、この偉そうな男は何だと苛ついていた。

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