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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#51

11 公儀と朝廷と戦と(2)

 その頃は京に場を移して、兵庫の開港と長州への「寛大な措置」が議題になっていた。兵庫の開港は勅許されたが、長州への措置については、朝敵であることが解除されたもの、復権には程遠かった。慶喜が判断を下さなかったのだ。それに対して慶喜に圧を加えるために、薩摩は藩兵を京に置くことを決定した。

 もう一つ土佐の後藤象二郎が、慶喜に大政を奉還すべきと運動するため上京している。薩摩はこの時、土佐から盟約を結ぶべく、働きかけを受けて同意している。この件について長州に薩摩は説明をしていた。
 この時島津、伊達宗城、松平慶永、山内豊信の四候の動きに対して、長州も協力すると薩摩に伝えている。これには朝廷工作を優先する意味合いがあった。

 ここにきて長州としては、公儀が指示する代表者の大坂招致を、受け入れることにした。ただ代表者が大坂に行くだけではない。これによって長州は人ともに軍を大阪に置くことができるのだ。

 10月10日に聞多は藩主敬親の命を受けて、大宰府に向かった。大宰府にいる三条公らに、京に帰還の予定があることを告げるためだった。そのころすでに薩長芸三藩が、大阪に兵を送っていることも併せて伝えた。

 そのころ京の二条城で10月12日、将軍慶喜は幕閣の役人に対して、朝廷に大政を返上することを告げていた。翌日13日に在京中の諸藩に対しても説明していた。それに対し薩摩の小松は、朝廷には政治を行う力がない為、これまで通り将軍が執務することになるかと確認していた。将軍職も返上が考えられたが、結論の出ないまま放置されていた。

 慶喜は大政奉還を行った後、二条城を出て大阪城に移っていた。岩倉具視を中心とした者たちの意見具申などで、徳川慶喜の辞官納地も決定されることになっていた。

 しかしこのまま事が進むと諸侯会議が開かれ、代表として慶喜が実権を握ることになれば、体制として変革をすることはできなくなる。それを恐れる西郷や大久保、岩倉達は起死回生の一手を行うことにした。佐幕派を排除したうえで朝廷を動かした。王政復古の大号令といわれる、クーデターを仕掛けたのだ。

 王政復古の大号令が発せられ、大宰府の三条実美公ら五廷臣についても、官位の復位と帰京の許可が出された。


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