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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#124

22 江華島事件(7)

 横浜で、馨は乗船する前に家族と団らんの時を持つことができた。
「お末、ママの言うことをよく聞いて、身の回りのことは自分で揃えておきなさいね」
「パパ、だいじょうぶ。できます」
「いや、パパは。パパではなく、父上と言いなさい。わかりましたか」
「はい、父上」
「よし」
 そう言うと馨は末子の頭をなでた。困ったような嬉しいような末子の笑顔が愛おしかった。
「武さん。後のことは頼む。できるだけ身の回りのものも整理しておいて、イギリスに送るものを決めておいてくれ」
「はい、わかりました。行ってらっしゃいませ」
「では、行って参る」
 武子は別れの風景を儀式のような、形式じみたもののように見ていた。フロックコート姿で、シルクハット、ステッキ、かばんを持って出ていく、夫が言うのは結局「行って参る」なのだ。
 あの人の芯には未だ武士がいきているのだと思った。なれば自分は戦場に赴く夫を見送る、妻の強さを見習うしか無いと決心した。今更ながら、戦にも色々あるのだと知った。

 他に見送りに博文と山縣、大久保も来ていた。
「大久保さん、木戸さんのことよろしくおねがいします」
「私は黒田の粗暴の挙動が不安で、井上くん、君を副使に選んだ。君の戦争を厭う気持ちはいちばん大事なものだ。その信念を持って、黒田が短気を起こしたときは諌めてほしい」
「はい、それはもちろん。よくわかっております」
「俊輔、不思議な顔をするな」
「すまん、成功を信じている」
「そうは言っても、さっきの大久保さんの黒田の短気って、わしに向けていっとるような気がしちょるよ」
「聞多らしいの」
「こちらは、もしもに備えて下関で出張っとるから」
「あぁ、心強く思う。狂介ありがとう」
「では、皆様行って参ります」
 馨は前だけを見て、船に向かっていった。すると入り口で待っている青年と目があった。
「井上さん、こちらへ」案内に従って、ロビーの椅子に座った。
「君は」
「私は井上さんの随行を命じられた末松謙澄と言います。実は新聞記者だったのですが。昨日正院御用掛を拝命し、随行員となったもので、まだ右も左も分からない状態です。何分ご容赦いただきたい」
「ふははは、そりゃ大変じゃ。それにしても奇遇じゃ。実はわしも昨日任官したばかりじゃ。同期じゃの」
「えっ」
「出戻りだけどな」
 末松も困った顔をしながら笑っていた。

 大阪で用事を済まし、神戸で末松と船を待った。すべての支度が整い、出航となった。
 対馬につくと先遣隊の口述書伝達のため、釜山に赴いていた広津が現地の状況を説明していた。
そこには旧態依然とした朝鮮の慣例があって、日本が行う儀礼的なものは通用しないことは明らかだった。
 釜山から江華府に行ったところで、また江華島事件の二の舞になり、砲撃戦になりかねないと思いあたった。そこで、儀仗兵を用意するべきと話がまとまり、二大隊の増援を依頼した。
ただここにとどまることもできず、江華島付近に船を止めることにした。
 そして水路の測量を行うという事態に、当初軍人ばかりで行かせるわけに行かないと、黒田が乗り込む気でいた。しかし全権弁理大臣自らは何かあったら困るという随行員の制止に、馨が行くという事になった。その調査の結果、停泊しやすいところとして、江華島の南口付近に停泊し、江華府に向かった。

 江華府に落ち着いた頃、東京から増派はできぬという命を持って野村靖が派遣されてきた。そこで使節団は当初の目論見通り、交渉を始めることにした。

 江華府の接見大臣にまず挨拶に向かった。そして返礼を受け、談判が始まった。
 新政府になってからの朝鮮朝廷への使書への返礼のないことについて説明を求めた。
 しかし具体的な回答を得られず、その場しのぎで済まそうとしているように見えたので、このままこの日の談判を終了させた。
 次の日の談判で、朝鮮側が我らは接待担当で、回答もしっかりとしたものはできないので、朝廷に通知をするので、相当の謝辞をすることになると回答した。
 黒田はこの答弁を持って、結論にしたいと思い告げた。
「両国の国交を回復し関係を硬いものとするため、条約の締結を行い信頼を結ぶ必要がある」
 そして、条約案を提示した。
 加えて馨はなだめるように言った。
「いいですか。この条約は朝鮮を独立国として締結するものです。清が朝鮮に対して行うようなものではなく、対等な国として我が国が考えていることを承知していただきたい」
 そして調整の結果10日間待つので、回答を持ってくるということになった。このときこれ以上は伸ばせないと釘を差しておくことを忘れなかった。
 回答が届けられると、修正点の指摘が数多くあった。その希望には根幹に関わらないものは応じることにした。
 そして、条約の批准を示す国王の署名には拒否の姿勢を示していた。文書の署名については、馨にはいつか来た道でもあったので、必要な理由を懇切丁寧に説明をした。
 しかし、態度は変わらず、使書の返答がないことについての謝辞文も誠意が見られるものでなかった。
 有耶無耶の中で終わらせたいという意志と見たことで、担当大臣に交渉の決裂を告げた。
「紛争の火種になることでもよろしいか」
 黒田は毅然と言った。

 使節団は宿舎に戻り、船に戻る準備を行っていた。そこに朝鮮の担当大臣が出発の延期を申し入れてきた。
「会談は順調だったはず。うまく行かない部分については、5日間の猶予をいただきたい」
 それを聞いた黒田はなかなか納得しなかった。
「日朝両国の300年来の交わりをここで破り、討伐などということになるのはとても忍びないこと。必ず5日間で和好達成の道が開かれるのならば、艦内で待つことにする」
 黒田が告げた。
「黒田大臣の言ったことは最終通告である。これ以上当方の言うべきことは無いので、両国の平和を破ることのなきよう願いたい」
 馨は念を押して言った。

 黒田たちは艦に戻ったが、馨は数名で宿舎で待つことにした。すると3日後に使者がやってきて、条約や謝辞などに異論はないので、27日に条約を互換したいと申し出てきた。これを艦内の黒田に伝え、27日に条約の互換の儀(朝鮮側の批准)を完了した。この日朝修好条規は日本側の批准を待って発効することになる。
 これにより、通商条約締結の道が開かれることになった。

 すべてを終えて、3月5日横浜に帰港した。
 実は到着は翌日の予定だったところ一日早まってしまった。このため歓迎の式典は、翌日新橋停車場三条公の出迎えを受けて行われた。
 その後黒田と馨は参朝し、復命の式に臨んだ。天皇からは勅語を賜り、正副大臣の復命をお聞きいただくことができた。ここに来てやっと平和裏にこなせた喜びがこみ上げてきた。しかも黒田には2000円、馨には1500円の恩賞が下賜された。
 その後黒田清隆、井上馨の名で、儀仗兵の増員の件や開港の場を江華島から別のところに変えたことなど、説明する文書を三条公に提出した。
 6月1日に朝鮮の修信使が参内し、日朝両国の国交の回復が世に示された。

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