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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#122

22 江華島事件(5)

 翌日、博文は出仕すると工部省にやってきた山縣と合流し、内務省の大久保のもとに行った。
「大久保さん、山縣と二人で井上さんに会ってきました。朝鮮使節の件、承諾をしてくれました。それで、井上さんの任官はどうなりますか」
「あぁ、元老院議官でどうですか」
「わかりました。大丈夫です。ただ、条件が」
「条件ですか?」
「はい。自分と木戸さんに、三年間の欧米での留学を認めてほしいと。できれば一等官の生活保証も。ということでした」
「井上君らしい。井上くんの留学は問題ないでしょう。ただ、木戸さんは…」
「そこはうやむやにしておきます。井上さんに何かあれば、僕にまたお願いします。それでは失礼します」
「失礼します」
 やっと山縣が口を開いた。それ以外博文は、山縣に一切口を挟ませなかった。
 博文が部屋を出て、ドアを締めると、大久保は大きなため息をついた。

 これで、朝鮮派遣使節は決まった。薩摩の黒田清隆に対抗できる戦争反対派としては、井上馨以上の人物は長州にいないだろう。大蔵大輔時代、大蔵省の巨大な権益を背景に、内治が優先だと単独で台湾征討を止めている。
 木戸の右腕でもあるから、この役目に名乗りを上げていた木戸を抑えることもできる。しかも気性は黒田といい勝負だ。
 ただ鉱山に対する訴訟の当事者になっているとはいえ、大蔵省の判断に誤りがあって、債務と鉱山の価値を改めて計算し直し差額を返金させれば、事情も変わってくる。
 後は事務の監督責任の問題だ。そこで落とし所が決まれば、井上馨について巷で言われている、私物化や贈収賄などが認められない以上、微罪処分ということになる。大蔵省の大隈と司法省の大木に説明をして、大隈には差額の返金に応じさせることだ。
 それにしても、なぜ三年なのだろう。己だけなく木戸と。井上馨は商事会社で米の売買をしているという。山口で士族の授産事業にも取り掛かっている。と、いうことは士族の不満を感じているのか。
 肥前佐賀の江藤のことだけでなく、士族の反乱が起こり、安定するまで、いや最後の反乱の鎮圧に、それだけの期間がかかると見ている。長州の騒動の鎮圧に関わったのは、木戸と井上馨だ。
 そういうことか。大久保は、井上馨の考えていることがわかった気がした。そして、たしかに大阪会議の後、木戸の思う通りには、井上馨は官界に復帰できなかった。だからといってその影に自分がいるとして、拒絶されていることに気がつくというのも寂しいものだと思った。

 馨は先収会社の銀座の事務所に赴いた。益田がこちらに出社しているのを確認すると、事務室に行った。
「益田くん、すまんが邪魔する」
 声を聞いて慌てて立ち上がった益田は、馨の表情を見ると秘書のものに声をかけた。
「これから暫くの間、この部屋の近くに人を近づけないでほしい。誰もだ」
「了解いたしました」
 扉を閉めると益田は馨の方を向いて言った。
「これで、大丈夫です。お話を」
「そうか、すまん」
「ずいぶん、すまんばかりおっしゃいますね」
「たしかにそうじゃの。すまん」
「ふふふ。ですから」
 益田は笑って見せていた。改めて気を使うのがうまい男だと馨は思った。正直に話すべきだと決心ができた。
「どこかで、聞いておるかもしれんが。朝鮮の江華島で起こしたことの、後始末に行くことになりそうじゃ」
「薩摩の黒田さんが正使で行かれるという使節ですか」
「そうじゃ。正使が薩摩なら副使は長州からということでな」
「そうなると、御用は使節だけで済むことでは無いですね」
「あぁまず、官員に任命されて、使節として赴くことになろう」
「この会社は、畳むことになりますか」
「そうせねばなるまい。会社の総監をやりながらというのは無理なこと。前にも木戸さんからの申し出があった時に、会社は精算してほしいと言われたであろう。同じことじゃ」
「あぁ。立憲政体の詔が出たときでしたね」
「そうじゃ。この度は間違いなく、わしは官に戻ることになる」
「そうですか。やっと会社が回っていけるようになってきたのに残念です」
「わしも、残念だ。ただ、残念で終わらせるのもつまらんと思わんか」
「どういうことですか」
「伊藤を使って、大隈にちょっとした依頼をしておる。その話が来たらぜひ乗って欲しいんじゃ。突然会社を閉めることになってしまった、せめてものお詫びじゃ」
「わかりました。私の方でも考えておきます」
「すまんの。後は正式に決まったらということになろう」
「早めのお話ありがとうございます」
「それでは、わしはこれで」
 馨は立ち上がり、部屋を出ようとすると、益田も立ち上がろうとした。それをよいと言って制すると、自分でドアを開けて出ていった。
「もう、終わったからええぞ」
 ドアの近くに控えていた秘書に声をかけて、歩き去っていた。
 益田の方は、椅子に深く腰掛け、考え込んでいた。
いつか来る話だと思っていたが、まさかこんなに早いとは。
そうだと思い、大阪の吉富簡一に文を書くことにした。
「好人物を夫に持つと、女房としては他に取られないかと気をもむらしいが、まさか自分がそのようなことになるとは思わなかった」
 そこまで書くとふっと考え込んでしまった。女房か、官の方には伊藤さんがいるのだ。あちらのほうが本妻、正妻なのかもしれない。しかし、井上さんが何かを考えてくれている。それはきっと面白いことに違いないと思うことにした。

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