回想の中の人たちについて

〇をノートに書いてみよう。こんな広告が世の中にあふれていたことが昔あったが、今は全く見なくなった。計算式が思い浮かばないときは、エアコンのリモコンの電池を交換すればよいことは、確かなこととしてわかっていたぼくでも、さすがにノートに〇は書かなかった。おそらくノートに小田急の路線図を書くことへのカウンターカルチャーから生まれたことだと思うが、僕はどうしても乗れなかった。給湯室でサイドステップを踏んでいる30代から50代くらいの世代の人達に特に用もないのに議論を吹っ掛けようとしていた。それはだいたいの場合、警備員の恰好をした科学特捜隊あがりの人にたしなめられていたが、いまでもそれは間違いではなかったと思っている。
 回想の中の人たちを思い出して、東京ディズニーランドのエントランスで空手家についてよそよそしい会話を交わす妄想は、時として裁判官の心証を悪くすることにつながるから良し悪しだ。だが、そこに一工夫して肩甲骨がでっぱった空想上の人物をある美術館の責任者に抜擢する瞬間の感情について深く深く考えることをすることで、だいぶ緩和されると思う。まあ、あくまで気休め程度なのでそこは誤解することがないようにしてもらいたい。回想の中の人を思い出すとき、本当は考えなくてもいいことをつい考えてしまうことがある。例えば、回想の中の人たちとサウナに行ったことを想像してみてほしい。そこであなたはきっと足の裏について忌憚のない意見をサウナの客に求めるだろうが、回想の人の顔をそのときは、つらいだろうが、横目にでも観察しておいた方がいいだろう。これはつらいだろうが我慢してやってみてほしい。きっと世界が少し広がるから。ツンドラ地方に生育している動植物をキックボクシング中には思い浮かべないことと同じく、それだけは保証します。

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