泳ぐ魚

 魚が泳ぐといっても、階段を上って、それがどこまでもつづくとなると大変な、途中で座り込んで、寝息を立てながら、また昇り始める、そんな感じの運動ではもの足りない。
 たいていのことを空想し、それを宙に泳がせることで、夢をみることになっていたそこに落とし穴があるとすれば、それはすでに自分の夢の中に入りこんでいるのかどうかを確かめるための手段を持っていなくて、泳いているような気持ち、あるいは指の背のちょうど関節のところで壁を軽く叩いて様子をうかがうなかで、その音が響かなければ、それもまた無駄なことになる、というくらいの虚無感よりも、覚悟が足りないのか、ただ体力がないだけなのかを決める大切な時期に、泳ぐ魚としての自分がやはり、宙をさまようだけのことなら、ずいぶんと長い時間をかけつづけてきたことからも、また、この広い空間からも、いつもさまようことになって、取り返しのつかないことにならないように気を引き締める、といったところだった。
 リュックサックから食べ物がないか探して、とりあえず、ここを通り抜けようと先を急ぐにも、とりあえず、丘の上に登るルートは確保されず、その区切りをどうつければいいのか分からないまま、流れに身を任せるために、まずそれを探すことを魚となってしているわけではなかった。
 物陰からそれをうかがっていた夢を追っている僕としては、ようやくその時、目を覚まして気がつくと、もうそうなっていて、魚でなくともそこを泳ぐ方法を決めていなければ、そこを泳いでいることにはならないから、そこでようやく夢を追っているほうの状況と照らし合わせることができた。
 だからといって階段を上ることを考えれば、魚ではない方がそこで目を覚ますべきで、もう少ししっかりと起きることが必要だったとは思う。それには階段を上るのに右足からにするか、左足からにするかの違いくらいのもので、僕が今、起きていようと寝ていようとそんなに大差のないことのように、一歩目から躊躇することはありえないはずの自分は、もうそこを上りきったものと同じように、ただ左右の脚を交互に動かすだけだったから、もうそうしたことにして、僕のほうは階段を下りていった。
 僕はそこからさらに階段を下りることにして、ふいに一八〇度、方向転換する。それで階段を上っていることにするか、一八〇度、方向転換していることを思いながら下りつづけるなかで上っていった。
 そこで僕がすき焼きを食べたのが、午前二時を回ったあたりだった。
階段を無いものとしてそこを水平に移動するなかで、僕は自分と同じ向きに動いているその人の肩に手を置いた。
「泳ぐ魚を見ませんでしたか?」
「私とあなた、両方だと思いますが」彼は僕の中のなにかの、珍しそうなところはどこかを捜すようにまじまじと視線をくれた。「それに私は金魚を二匹、飼っているんですよ」
「なるほど。ではブルドッグなんかは、どうでしょうね?」と僕が聞くと、「それはそのブルドッグ次第でしょう」と応じるのに、彼はあまり時間を置かなかった。
 あまりにも当たり前の調理法では、誰が焼いても同じだといわんばかりの焼き魚に、一発、喝を入れるといった類のサンマやアジといった海の魚を凡庸に追うことで、僕たちはかろうじて会話を成り立たせているらしいのだ。
 そこでは、あっという間に通り過ぎるマグロはもちろん、サメや、哺乳類ではあるものの、シャチやクジラまでは、さすがにこの領域には入れないことで、心の平安や調和といったものが保たれているのかもしれなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?