10秒後のこと

     

 僕が「ここは丘に登る道ではないのでしょ?」と聞くと、男は「それなら心配ありませんよ。ここから見える景色と一緒ですから」といい、なにかのヘッドライトが右前方からこちらに向けて方向を変えた。
 枕から伝って下に垂れている右腕の力のなさがその向きに広がっていくひとつ下の部屋で、その人はそこにいるかのようにふるまっていた。
 彼が持ちあわせているものがそれで合わさって、皆で丘に登るというには気持ちがのらないから、そもそもズレたものになっていて、僕の持ちあわせのものが、ここにきて重くなっていくようだった。
 下に引っ張られるすべてのものが接するかのように合わさって、それがともにどこにもいかないまま、高校生の倉本かおりは目を閉じた。ラジオからはしゃべり声よりも笑い声のほうが大きく、彼女の耳元でそれは流れていた。
 面白い話題を探るなかで、近くの公園ではアブラゼミが年々、少しずつ数を増やしていった。七年ほど地中で過ごすといわれる彼らが静かにその時を待っていて、気の早い者は夜中に鳴きはじめていた。
 前に用水路がある家の植木鉢には、いつどこからともなく小さなカエルがいて、彼らが来たかもしれない田んぼは、その向こうにいくつかあった。除草剤によって枯れかけたのと、そうでない草とがまちまちにあって、少し経つとほとんどがまた緑色が占めていった。
 彼女はお笑い芸人がラジオで、夜、自転車を急いでこいでいるときに、ふいに「あのう、すいません」と声をかけられたことを話している内容に耳を傾けていた。
『おかしくね? こっちは自転車こいでるんだよ。それで「あのう、すいません」っていうからさ。あれ? と思っている間に行き過ぎるじゃん。で、しょうがないから振り返ったんだけど、誰もいないんだよね』
『え、なにそれ、怪談話?』
『別にそうじゃないけど。声をかけるんだからさ。何か用事があるに決まってんじゃん』
『いやいや、決まってないでしょ。別に』
『え、なんで?』
『例えば服にゴミがついていて、知らせようとしただけとか』
『それも一応、用事ということで』
『ああ、まあね。うん。それで?』
『いや、だからさあ。「あのう、すいません」って、なんで声かけられんの?』
『いや。声をかけたはいいけど、自転車でひゅーって行っちゃったからさあ。その人も、もう別の人に頼もうとしたんじゃない?』
『まあ、そうなのかもしれないけど、言われたこっちはずっと、『あれ、今のなんやったんやろ』って、思ってるからね』
『そんな、いつまでも思っててもしょうがないやん。早よ忘れろて』
『忘れられへん。あれ、なんやったんやろなぁって。だってこっち結構なスピードで走ってんねんで?』
『うん』
『それで「あのう、すいません」て、そんな声、どうやってかけるん?』
『まあね。まあでも、もういい加減、忘れていいんとちゃう?』
『あかんねんて。頭に引っかかって、忘れられへんのよ』
『じゃあずっと憶えてられるか?』
『いや。そんな頭よくないて』
『じゃあ、もうええやろ?』
『あかんて。気になるて。あれ以来、ずぅぅっと引っかかってんのよ』
 他愛のない話が進む中、倉本かおりは、うっすらと笑みを浮かべていた。
 作り付けの網戸がある、肩幅ほどの細さの窓が少し開いていて、昼間の暑さの緩んだ空気が風もなく入りこんできて、北側にある同じような窓から抜けていた。
 彼女の腕には蚊がとまっていて、一〇秒後に、刺された痒さに彼女の気はそこに向くのだった。

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