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誰とでも互角の男――連載「棋士、AI、その他の話」第20回

 藤井聡太といえど手痛い逆転負けを食らったことは何度もあるが、その中でも有名なものの一つが2017年の叡王戦決勝トーナメントだろう。日は12月23日。クリスマス直前だった。
 戦いは序盤早々に藤井がリードを奪った。この年にデビューして29連勝。一躍国民的スターとなった藤井はもちろん棋力も十二分に高い。四段の中で一名しか勝ち上がれない予選トーナメントを制覇したことからも、それは自明だ。飛び抜けて勢いのある若手代表格、それが当時の藤井の立ち位置だった。
 藤井は攻めを重ねる。形勢も有利から優勢、そして勝勢にまで振れた。ニコニコ生放送でのAI評価値は2000を超えている。ただ一つの懸念として、藤井にはもう時間がなかった。それまでの長考で持ち時間を全て使い果たし、1分将棋へと突入していた。対する相手は50分近くを残している。はたして、この差が逆転の呼び水となった。
 藤井は相手の歩頭へ桂を放り込んだ。これが決め手の攻め、かと思いきや失着で評価値は0近くへ戻ってしまった。あれだけ形勢の良かった局面がわずか数手で互角へと変わる、これが将棋の醍醐味である。
 しかし互角なのだから当然まだまだ戦える、とはならないのが人間だ。優勢をフイにしたショックや焦りも生まれるだろう。持ち時間の差も依然としてある。そしてついに藤井は、致命的に間違えた。徹底的に受けるべき局面で、中途半端な手を指してしまった。すかさず相手が金を打つ。これで攻守が入れ替わっている。あっという間に藤井玉は寄ってしまった。藤井は負けと知りながら指す。その態度は、あきらかに普通ではなかった。悔しさや苛立ちがありありと見て取れた。
 投了後しばらく、藤井は体をまっすぐに起こすことができなかった。うねうねと体を動かし、何かを相手に話しかけようとして、また俯く。このような姿を、少なくとも現代の放送対局で見せる棋士は他にいない。普通は悔しさを表に出さず、きちんとした姿勢で感想戦を始める。そういった体裁を、藤井は将棋に没頭するとき、一切気にしない。外野の視線を意に介さない芯の太さがある。だからこそ、どれだけ国民が騒ごうとも、ただ棋力の向上だけを追い求めることができる。
 この対局は藤井にとって初めての大逆転負けだった。そしてこの経験を糧に更なる高みへ登っていく。

 さて、この逆転劇、ただ藤井がミスをしたから起こったわけではない。そこにはもちろん相手がいる。相手が崖っぷちで必死に粘り、耐え難きを耐え続けて生まれた一筋のチャンスを逃さなかったからこそ、勝負が裏返ったわけである。
 その対戦相手こそ、深浦康市九段。人呼んで「地球代表」。そして「誰とでも互角の男」。

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