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視覚に頼りすぎなわたしが暗闇で過ごす #ダイアログインザダーク

2018年前後にわたしは福祉系のWebメディアを運営するNPOで勤務していて、そのときに福祉をクリエイティブに彩っていくすてきな活動を複数知ることになりました。

その中で、いつか体験したいなあと思っていたけれど、なんとなく一人で行くのは腰が重いし、でも誘う人もいないしなあと思って、いままで頭の片隅に放置し続けてきた場所があります。

それが「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」。

視覚を使わずに、日常生活のさまざまな場面を体験する催し。目の不自由な人が案内役となり、目隠しをした参加者が、聴覚・触覚・嗅覚を使いながら、屋内や自然の中で対話を楽しむ。1988年にドイツで考案され、世界各国に広がった。DID (dialog in the dark)。

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急に降りてきた「いま行かねば」感

日々目を酷使しすぎているわたしは、視覚を使えない生活を全く想像できません。

視覚障害の方の感覚を知りたいとかそういう意味合いでは全くなく、単純にいまのわたしに必要なのではないかと急に降ってきたので、急に予約して急に行ってきました。急なのでもちろん一人参加です。

結構ビビリなので、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク ひとり」と事前にググる。「一人での参加がおすすめ!」的なコメントを複数見かけたので、少し安堵して迎えた当日。

7名参加で、ペア参加×3組+わたしという布陣。でも、決してめげません。

暗闇はどこまでも広く、そして狭い

明るい部屋から、灯火一つの部屋。そして暗闇へ。

詳細は書けないから、身体感覚を経て気がついたことをつらつらと。

とにかく暗く、何も見えない。この暗闇がどこまで続くのかわからない。ものすごく広く、どこまでも続いているように思える。

人の声が異様に遠く感じて焦る。遠くにいる声に近づいていくと急に「とんっ」となにかに突き当たる。思ったよりも近くにいたらしい。

急に誰かの体や手が触れることに最初は戸惑うけれど、すぐに慣れて、人の体温に安心する自分に気づく。

声を発していないと自分がこの場から消えてなくなってしまうような気がして、一生懸命に声を出していた。同時に、無意識で発する「ここ」「そこ」「わたし」そんな言葉の無神経さに驚く。

いろんなことが視覚がある前提で動いている。そんないつもは当たり前で何も感じないことに違和感を覚えたりした。

暗闇で過ごすということ

暗闇からまた灯火ひとつの部屋へ移動し、そこで小さな光を見たときに、視覚は一切使っていないはずなのに、ものすごく目が疲れていることに気がつきました。

何も見えない暗闇で、わたしは必死で目を見開き、何かを見ようともがいていたのでしょうね。

「暗闇で過ごす」ということをうまく体験できなかったのかもしれないな、と思いました。

次に行くときには、もう少し暗闇で過ごすことができるだろうか。視覚を使って見えないものを見ようとするのではなく、視覚以外の感覚で見ることができるだろうか。

そんなことを思いながら、日常の明るさに改めて出会ったとき、なぜかわたしの胸はいっぱいで、気を緩めたら泣いてしまいそうでした。

なんでしょうね。この気持ちをうまく表すことは多分できません。

「光を感じられることに感謝」とか「目が見えていることが幸せに感じた」とかそんな陳腐な言葉で片付けたくはない。

そんな単純なものでは、たぶんない。

でも、確かにわたしの心は動いた。それでいいのだろうといまは思うことにします。

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