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(創作)ハンカチと黒龍(原稿用紙11枚)

1
 烏丸(からすま)美羽(みう)は婦人科の待合室にひとりでいた。彼女は中学校三年生。先週、お腹に赤ちゃんがいると婦人科で言われたのだ。中学校を今年三月に卒業した一年上の先輩、朝陽(あさひ)先輩の子に間違いはなかった。
 でもそのお腹の子はとても弱々しい心拍で、お腹の中で育たないかもしれないとも先週、言われた。
 まだ中学生だ。育てることなんてできっこない。去年のクリスマスからおよそ一年間つきあっていて、大好きな先輩の子どもだ。その命が重たすぎた。
 朝陽先輩にとってはたった一度の命の営み。それがこんなことになるなんて。彼には言わず、ひとりで産むつもりだった。美羽は自分のお父さん、お母さんにも妊娠のことを話すつもりはなかった。でも、そんなことできるの? もしこの子がいま助かったとして、臨月まで、生まれた後も、秘密を守って生きていくの?
 できっこない。できっこない。
 固く握りしめたこぶしに、一粒の涙がぽたりと落ちた。その美羽のこぶしに落ちた涙を、誰かがそっとハンカチで拭ってくれた。黒地にワンポイントのパンダ柄の刺繍がされたハンカチだ。隣に座っていた男子のもの。
「ありがとうございます」
 蚊の鳴くような声で美羽はお礼を言う。男子の顔を見られなかった。代わりに男子のひざの上のハンカチをながめる。このハンカチ、パンダの刺繍がすごく可愛い。縫い目が若干粗いので、もしかしたら、手縫いで刺繍されたものかもしれないな、と思った。「こんな時」なのに、ほっと笑みがこぼれた。
「メソメソすんと、もうらしい(かわいそう)やさ」
 隣の男子の声がした。高原の風みたいな透き通った声。
 ほんとうは、朝陽先輩に隣にいてほしかった。この男子は誰かの付き添いなのかな? 声の感じからだと、美羽より少し上かな。朝陽先輩と同じ年ごろかな。高校生なのかな。この人は、「付き添ってきた誰か」の隣にいないとならない人ではないのかな?
「黒鉄(くろがね)平良(たいら)さ。覚えとけ」
 男子はそう言って、美羽の手を軽やかに握った。急にそんなことをするなんて。思わず彼の顔を見てしまう。
 坊主頭の男子。肌の色が浅黒い。大学生なのか、紫色の私服を着ていた。朝陽先輩も日焼けしてるから、なにか雰囲気が似ていた。けれど、朝陽先輩と違うのは彼の目だった。整った浅黒い顔の中で主張する目。わんぱくそうでいて、どこか老成した目。
「先祖の姿に戻って山越えてきたさ。おめえの一大事だったからさ。診察、あと二人で名前を呼ばれるやさ。ひとりで行けるか? 診察の前にこれ、食えさ」
 彼は謎めいたことを言うと、高菜饅頭を美羽にくれた。美羽が今朝テレビで見た信州の高菜饅頭。老舗のものにそっくりだった。東京でも売ってるのだろうか?
 美羽のお腹が情けなく、くぅーと音を立てる。顔が真っ赤に火照った。平良という男子が片手をカーキ色のパンツに突っ込んで平然としているのが憎たらしい。
「食べていいの? 診察前だし、誰も食べ物を持ってる人なんかいない」
 美羽は言いながら辺りを見回す。すると、診察室の看護師さんも、順番を待つ人も、まるで凍ったように動いていない。
 時が止まってるの? でも、気のせいだよね。そんなこと、ないよね。
 胸がドキドキドキ、と早鐘を打つ。
 高菜饅頭は温かい。今が十一月後半なのを思い出す。初めて食べたのに懐かしい味がした。
「オラは上野動物園でも寄って帰る。せっかく東京に来たからな。おめえは診察、いってこいさ」
 食べ終えた美羽の背中を男子がそっと押した。温かくてごつごつした手のひら。その手が触れた瞬間に、時が動き出す。
 美羽の隣には誰もいない。パンダ柄のハンカチだけが椅子の上に落ちている。
 美羽はハンカチを拾い上げた。
 たった今、自分は確かに「誰か」と会って話をしていたようだった。でも、頭の中に濃霧が立ち込めたように思い出せない。それに、婦人科に知り合いなんているわけがない。
 それでいて、手のひらに熱があった。何か温かいものを今しがたまで持っていたかのように。
 椅子に置かれていたパンダ柄のハンカチは、よく見ると「たいら」とひらがなで端っこに名前が縫い込まれている。
 持ち主のお母さんが縫ったのかな。誰かの落とし物なんだろうなあ。
 診察室から名前を呼ばれた。とっさにハンカチを握りしめたまま、診察室に入った。

2
 お腹の赤ちゃんは、もう心臓の音が止まっていた。お医者さんにもどうしようもないらしかった。
 涙があふれて、思わず、持っていたパンダ柄のハンカチで目頭を押さえていた。
 美羽が手術をしないで済むように、お腹の赤ちゃんが自然にからだから排出されるのを何日か待つ、という言葉が特につらかった。診察してくれたのは女医さんで、診察室の隣の空きベッドに連れていってくれた。そこで美羽は十分くらい泣いていた。
 スマホの中の朝陽先輩とのツーショットを、空きベッドの上でながめてしまった。待合室に戻ってからも、お会計までの間、ずっとスマホをながめていた。
 ふたりで今年の夏、江ノ島の海に行ったのだ。八月の太陽がぎらぎらと銀色の光を海面に放っていた。朝陽先輩はハーフパンツの水着になって、波とじゃれていた。色白で病弱な自分は、水着なんて着られなかった。ただ、白い帽子を深くかぶって、彼の横でか弱く微笑んでいた。地元のおじいさんが気を利かせてとってくれた、ふたりきりの写真。
 その時、朝陽先輩からスマホアプリのメッセージが来た。
「元気―? 昨日、バイトでまたミスしちまって。俺、働く才能ねえのかなー」
 先輩のはじけるような笑顔が浮かびそうな文面。
 お腹の赤ちゃんのことなんか言えっこなかった。
 先輩のことが遠かった。今日は学校に遅れて行こうと思っていたけれど、とても疲れているから、休んでしまおう、とも思った。

3
 その夜の夢で、美羽の目の前には塔が見えた。グラデーションの紫色に輝いている。あれは、いつか中学校の行事で行ったスカイツリーだ。真夜中は紫色に輝くものなのね。
 平良という男子が隣にいる。そうだよ。昼間会って話していたのに、なんでこんな、個性のかたまりみたいな彼のことを忘れていたの?
 ここはなにかの建物の中のようだ。真っ暗な闇をよく見ると、ライトアップされた浅草寺も真下に見える。
 浅草寺とスカイツリーが同時に見える場所。
「見てみ。キラキラしとる。深夜二時には誰も来ないところ探したさ。老舗ホテルのブッフェ会場を無断で借りたさ」
 平良は口笛をうまく鳴らして、外の景色を指差す。はるか遠くまで、地上にまたたく銀河のような夜景が広がっている。
「こっちには山はねえやな。信州の山でもひとっ飛びすれば気持ちも晴れるけど、おめえが目え回すと困るやさ」
 平良はキリンとゾウ柄のパジャマを着ていた。建物内は暗闇なのに、それらが不思議とよく見えた。動物が好きなのだなあ、と、美羽は思う。どこかで、これは夢だと納得しながら。
「赤ちゃん、残念やったさ」
 平良に静かな声で言われて、美羽は涙がまたあふれた。
 すると、平良は美羽の目元の涙をそっと拭ってくれた。ハンカチではなく、直接、指先で。触れてきた手は、ごつごつしていて温かい。心の奥底をじわりと温かな針で突かれたように、美羽の胸の中がやさしく痛んだ。
 平良は、アハハハと笑う。どこか悲しい目をしながら。
「苦しいなら、いっそ、腹の底から笑え!」
 美羽もお腹に力を入れてみた。ジクジク痛むような気持ちがしたけれど、我慢した。平良はくすぐったそうな表情をして、美羽の頬や髪にそっと触れた。
「オラが、何年か後におめえが授かる次の子の親父になるんさ。そういうさだめやから、おぼえておけさ。でも、またおめえの記憶を封じるから、おめえはオラのこと、忘れちまうのは仕方ねえさ」
「平良さん、あなたは」
 全てを見通しているような彼の目からそっと視線を外しながら、美羽は聞いた。
「黒龍の子孫さ。おめえは黒姫というお姫様の子孫やさ。この本貸してやる。黒龍と黒姫の話に付箋つけといたさ。先祖のことくらいは知らんとやさ」
 平良の手にはいつのまにか本がある。彼はそのページを開くと、昔話を読んでくれた。美羽は心地よく眠気が襲ってくる。お姫様と黒龍とが悲しく激しく愛し合う物語。
 目覚めると自分の部屋のベッドの上だ。誰かに会ってスカイツリーの夜景を見ていた。あれは夢だったんだな。
 頭が鈍く重い。
でも、夢の中に悲しみの感情のボトルを置いてきてしまったように思えた。
 自分は夢の中で「誰か」に会った。そう思った。
 見覚えのない本が落ちた。日本の昔話集。
 誰のものだろう? わたしのじゃない。
 胸の奥がザラザラするが、嫌な感じではない。美羽はその本を読み始めた。

 

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