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ため息俳句 金木犀

 まど・みちおさんは、1909年山口県徳山市で生まれた。亡くなったのは2014年2月28日であった。104歳で逝去された。
 その100歳の時の詩集が「逃げの一手」である。
 人生100年時代とかもう聞き飽きたが、それでも100歳で詩集をだす人はあまりいない。
 自分は70歳半ばの爺であるが、100歳は近いかと云われればそうでもない気がする。まだ100歳の心境はまだ想像できない。あの孔子さまでさえ【七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず】だから、100歳はどうなってしまうのだろかと、思いながら本を開いた。
 で、巻頭の作品。

なぜ

なぜって
なぜいうんだろ
だからこそ
なぜなんだろ


 人生へ世界へ、「なぜ」と問うことを止めることができないらしい、100歳になってもということだろうか。
 100歳になれば、ぜんーぶにっこりと笑って了解できる究極の好好爺に相なれまいかと疑っていたが、どうやら人にもよるだろうが、違うらしい。
詩集のとっつきの前半は、まどさんらしい暖かさであるが、読み進めるうちに、こちらがヒヤリとさせらてくるところが現れる。そうとうにひやひやさせられるのだった。
 どんな塩梅の言葉であるかといえば、ここは俳句話の場であるので、まどさんの川柳を紹介しておこう。

 川柳もどき 
          ー屁のカッパー


遠来の
 客に笑顔で
  屁をこらえ

不意の客に
 あれこれまどう
  屁の家族

屁に寿命
 あるとは悲し
  ボケの花

屁のうらみ
 買いつつ笑う
  我と客と 


 いかがであろうか、自分としてはまどさん、意外にずばずば云うもんだと感心してしている。「屁」とはまことにクサイ隠喩である。

 「逃げの一手」というのは、この詩集のあとがきにでてくる。まどさんはこう言っている。

山川草木、すべての中に、いのちはあります。木でも草でも何でもそうです。その中の、人間は一匹に過ぎないんです。私は、この中で「逃げの一手」を貫いてきたことになると思うんです。詩の中に逃げること、臆病な自分から逃げるということでもあります。むしろ、大胆と云えるかもしれません。だから、逆に、そのことで私を生かしてきたというんです。
 有から無にはいるのと、無から有にかえるのと、その往復みたいなのです。逃げることによって、逆に生まれることにもなります。言葉っていうのは、いつも必ずそうなんですから。

「逃げの一手」ーそれが、私の生き方」

  自分のボンヤリおつむではうまくとらえられないのだが、「逃げの一手」を、逃げることによって逆に生まれ変わることにもなると、言葉は、いつも必ず逃げた先で生まれてくるのだと。
 「逃げの一手」という以上、逃げるという方法を押し通す、貫徹するということだ。それは、甘くはない身の振り方だ、ずいぶんきつい、意志の強さを要するだろう。世の中には戦う振りをする傍観者はうようよいる、時々逃げる振りのものもいる。「逃げの一手」を打つ続けるというのは、傍観者の態度ではない。確かにまどさんの言う通り大胆な手段であると云える。
 とにかく、言葉とは、逃げるにしろ戦うにしろ、そこに意志的にかかわるところから、わきあがるものらしい。
 そんなことを思った。

 話は変わるが、庭先の金木犀が朝方雨戸をあけると匂ってくる。屁の匂いの話ではない。
 金木犀の匂いをかぐわしいと感じる方が多いのだろうか。自分はあまり好きな方ではなかった。それに少なからずエロい匂い、いや官能をくすぐる香りだと、ちょっと敬遠していた。過去形なのは、この頃はそうではないからだ。大体において自己主張の強い香りがあまり好きでない。そこはとなくというのが、好みだ、まあありがちな傾向であるが。そういう意味では、毎年繰り返される金木犀の匂いにちょっと麻痺してきたのか、気にならなくなってきたのだ、好き嫌いではなく鈍感になってきたというだけかもしれない。
 それに、あのちまちまと密集して咲く花が、小さな星の集合体のように見えてきて、案外好きになったこともある。
 

金木犀香り籠もれる部屋無人