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北北西に行きたい

その場所を知ったのは2017年の秋だった。

『北北西に曇と往け』は行きつけの書店の平台にいた。透き通った青空を背に立つ青年。羽ばたく鳥、裏表紙には珈琲、長靴、ランタンと「実用的」なアウトドアグッズが精緻なタッチで描かれた美しい本だった。

この本でアイスランドの自然に取り憑かれた。
時間も旅費もないのにガイドブックを買い、雄大な自然へのアクセス方法を調べたりアイスランド料理の味を想像したりした。一時期ガイドブックを持ち歩き、暇さえあれば眺めていた。子供の習い事の待ち時間に眺めていた時ママ友に「アイスランド行くの?」と聞かれ「あ、いや…」と口ごもった。海外旅行に行けるほど余裕はない。

◆◇◆

世知辛い話になったので話を変えよう。なぜかの国に惹かれるのか。理由はふたつ。

ひとつは聖地巡礼。
『北北西に曇と往け』は、車と話せる異能能力を持つ青年、慧が、生活のためにアイスランドで探偵家業を営む物語である。探偵といってもハードボイルドでもサスペンスでもない。別れた夫のもとから犬を連れてきて欲しい、観光中に落としたスキットルを探してほしいレベルの、どちらかといえば便利屋に近い。

この作品の魅力を言葉で伝えるのは難しい。
イケメン探偵(人当たりがよさそうだが実はこじれたところがあり友達がいない)や、精緻に描かれた道具、アイスランドの大自然、主人公の叔父夫婦の死の謎、どれも魅力的なのだが、海外に聖地巡礼したいと思わせる理由としては弱い。

ここで「アタマ大丈夫?」と言われそうな理由を書く。

私は慧に会いたいのだ。

こいつやべぇと思っただろう。私も書いててヤバイなと思った。安心して。それくらいの分別はあるから。

「物語に引き込まれる」という言葉がある。話が面白い、キャラクターが魅力的だという意味で使われるが、私は「同じ世界に立っていると錯覚できる」ことだと思っている。
境界を壊すのは、ほどよいリアルである。フィクションだから荒唐無稽で構わないのだが、荒唐無稽の中にも一貫としたルールがあることがリアルを作る。『北北西に曇と往け』は絵と作り込まれた設定でリアルを描いている。

1巻にジャックという鳥の言葉がわかるイケオジが、ある女性のために鳥を呼び集めるシーンがある。女性は驚き喜ぶ。読者である私も素直に羨ましいと感じる。なぜか。鳥がリアルなのだ。リアルといっても写真のように現実をそのまま写し取ったリアルさではない。図鑑の絵にややデフォルメを加えたような、人が想像するリアルな鳥の姿がある。
このシーンの鳥がマンガ風にデフォルメされた鳥なら、「まぁマンガだから」「よくある話」とスルーするだろう。鳥が、私たちが想像するリアルな鳥だからこそ、境界が取り払われ物語に引き込まれるのだ。

登場人物の性格も綿密に描かれていて、このキャラはこの状況ならどうするかが本当にリアルなのだ。虚構の人物にリアルも何もないのだが、先に述べたように一貫したルールがあるとリアルさを感じるのだ。主人公の慧や、その弟の三知高の幼い頃のエピソードから、彼らの「今」と「この先の行動」を想像できる。それはよく知る友人がどう行動するのか想像がつくのと同じだ。

決して会うことはない、マンガのコマという窓を通して人生を垣間見ることができる人達といったところだろうか。

彼らが暮らしの中で見せてくれた自然を見、美味しそうなアイスランド料理を食べたい。慧やジャックやリリヤがいる世界に限りなく近い場所に行きたいというのがアイスランドに憧れる理由のひとつだ。

◆◇◆

ふたつ目は、むき出しの自然だ。

アイスランドのガイドブックを読んで、観光地といえど自然に手がくわえられていない印象を受けた。日本の観光地は歩道が整備され、柵や案内板が立てられている。その昔屋久島に行ったが、縄文杉までの道は整備されていて歩きやすかった。道に守られていたから縄文杉まで行けたのだと思う。

アイスランドの観光地には最低限の柵や注意書きしかないようだ。(この話は『北北西に曇と往け』2巻でも触れられている)。都市で生まれ育った私に、あるがままの自然の姿は力強くおそろしい。写真を通してすらそう感じる。

「自然の力が強すぎて
生命が歓迎されてない
賢くないと
知恵で
生命が許される
隙間をこじ開けないと
こんな新しい大地では
動物も 植物も
知恵のあるやつらだけが生きている」
(『北北西に曇と往け』2巻p.135-136より引用)

これは主人公、慧のセリフだ。

自然のように圧倒的な存在を目の前にすると、どうにでもなれと思う。ありがちなフレーズだが「人の悩みなんてちっぽけでどうでもよくなる」のだ。

朝から晩まで家事育児。朝食を食べながら夕食と翌朝の朝食と弁当のことを考え、平行して子供の5年後10年後の心配をする暮らしをしていると、そんなものを打ち消す圧倒的な存在に触れたくなる。

◆◇◆

コロナ禍で海外旅行は当分無理なので、いつかチャンスが訪れた時のため、コツコツ貯金をしている。最後に一番見たい景色「ゲイシール間欠泉」。

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アイスランドに憧れすぎて持ち歩いて読んでいたガイドブック。

『北北西に曇と往け』2巻。1冊まるごとアイスランド観光編。これ単独でアイスランドガイドとして楽しめる。

#一度は行きたいあの場所

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