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「意識高いね」という冷笑や偽善っぽさとのつき合いかた



きっかけ:LGBTQ+Allyオンラインイベントを通しての気づき


5月末、産業保健に関わる人のためのLGBTQ+Allyオンラインイベント
が初めて開催されました。
主催は、#nijihubという
”誰もが自分らしさを愛せる世界を共創する”
を掲げ共に学び行動し続けようとするひとたちのコミュニティ。
わたしもメンバーのひとりとして参加させてもらっています。

当日はリアルタイムで60人近くもの人が参加。
LGBTQ+の基礎知識やおかれている環境を学びつつ、
みなさんが知識習得にとどまらず、
個人を超えて自分にできることを決めて、
それぞれがすぐ行動なさっていました。

世界は変わるよね!と感動したし、
大げさではなく希望がみえました。
それと同時に、
世のため人のためによいことのはずなのに、
声をあげたり行動することを抑制させてしまう
自他からの冷笑やネガティブな反応について思い出したことがあり、
書き留めておくことにました。



無意識の言い訳

イベントのグループワークやその後のシェアを見聞きしていて、
思い出したこと。それは2011年の東北の震災後のボランティア活動を通しての体験でした。

「えらいね」
「すごいね」
「意識高いよね」
「わたしにはできない」


直接的にも間接的にもそんな言葉を聞いたとき、
わたしは
「大したことはできてないよ」
「暇だったからね」
「(独身で)身軽だからね」
と何らかの言い訳を無意識によくしていました。
本当は、いてもたってもいられずに、
わずかでもできることをしたいと純粋に思っていただけのに…

心の中で
「偽善者と思われていそう(=思われたくない)」
「これっぽっちのことでボランティアしているなんて、
 言わないほうがいいのでは」
というネガティブな思いがありました。
(気づいたのは後になってからだけれど)

周囲は気にしていないのかもしれませんが、
自分のなかには恥ずかしさのようなものもあり、
無意識に言い訳をしていました。

そんな無意識の思い込みゆえに、
当初はあまり、自分のアクションや想いを、
友人知人や職場で話しませんでした。

しかし、純粋に行動している
ボランティア仲間たちと共にいると、
周囲の目は次第に気にならなくなりました。
休日に東北に行き、
職場にお土産を買ってお話をする
SNSでシェアをする

そんなことをしていたら、手伝いたいとか、
できることない?と声をかけてくれる人が増えました。


意図的に開き直ること


そんなボランティアを経験してから10年。
今でも、社会活動以外の場面(例えば仕事)でも、
「生意気だと思われそう」
「うさんくさいと思われそう」
「偽善者と思われそう」
と、
心の隅のほうで反応して、少し萎縮する自分がいます。
(もう呪いレベル)

そんなネガティブな感情に気づいたら、
ひっぱられずに一呼吸して手放す。

「やりたいことをやってるだけです」
「恥じることはしていないもの」
「偽善で結構よ」

と意図的に開き直るようにしています。

また、情報を発信することの意義も確かに感じています。
情報を目にした人の中に、
自分だけじゃないんだ、そんなことできるんだ、
と知って間接的にでも楽になるひとがいたり、
巡り巡って社会がよくなるなら、
つまらないノイズにいちいち反応せずに、
情報を発信をしたほうがいい

と思っています。



開き直ることの後押し

社会運動の研究をしている富永京子さんの著書です。
意識高い系冷笑や偽善について、社会運動の文脈において以前からあったそう。各調査や文献などを紹介しながら、わかりやすく表現されていて、肩の力が抜けたのを覚えています。
呪いはといて、もう堂々と開き直ろう。

「 わがまま」 で あれ「 いい こと」 で あれ、「 偽善でしょ」「お前が楽しみたいだけだろ」 というまなざし は、ずっと前から存在した。
そういう悪口に対して反論するとしたら「 そうだよ。楽しいからやっているんだよ」と開き直る、ということでしょうか。それはなんだか悪く見えるかもしれない けど、自分のためで、社会のためにもなるんだから、偽善でもいいでしょ、ってことですよね。趣味だって勉強だって自分のためにやっているんですから、「 わがまま」言うことそのものを楽しんでも悪くないでしょう。

富永京子. みんなの「わがまま」入門 (pp.70-71). 株式会社左右社. Kindle 版.

ちなみにこの書籍では「わがまま」を
「 自分あるいは 他の人がよりよく 生きるために、その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動」として定義しています。

このままの社会では嫌だ、
誰もが自分らしく生きられるように
自分にできることをしたい、
そう自分が思って、自分がやりたいのだから、
それでOKじゃん
そう思えました。



沈黙しないことの後押し

小児精神科医の内田舞先生の著書にも、沈黙を破ること、アドボカシーについて書かれています。

「bystander(バイスタンダー、横で見ている人)ではなくally(アライ、本当の意味でのサポーター)、あるいはantiracist(アンチレイシスト、人種差別反対主義者)になるためにはどうしたらいいか」という議論も広く起こり、"SilenceisComplicity."(酷いことが起きているときに沈黙していることは、共犯だ)といった表現がされるようになったのです。

内田舞.ソーシャルジャスティス小児精神科医、社会を診る(文春新書)(pp.157).文藝春秋.Kindle版.


そうは言っても、間違ったらどうしようという迷いも感じますよね。
それにも言及なさっています。

しかし、間違うことを恐れて、ただただ傍観者でいるのでは、何も前進しません。逆に、間違った言葉を選んでしまうことがあっても、過去に反省があっても、知識が不十分であっても、分断を超えるための考えを共有し、行動することには誰かの苦痛を軽減させる役割があると信じています。

内田舞.ソーシャルジャスティス小児精神科医、社会を診る(文春新書)(pp.169-170).文藝春秋.Kindle版.


さいごに:「発信」ではなくそっと置いておくだけでもOK


インプットだけでなくアウトプットも!
これからは発信の時代!

という言葉がよく聞かれますが、
とはいえ、個人的には少々ハードルが高く感じます。
なので、わたしは誰かの目につく場所に
そっと情報を置いておくだけ
でもいいのではと思います。
(このnoteもそう)


しつこいようだけれど、
立派なアウトプットでなくてもいい、
偽善っぽくてもいい、
本当に大切にしたいことがあるなら、
それで1ミリでも世界がよくなるなら
ノイズは取り扱わず、開き直って行動したほうがHappy

ひとりひとりがほんの少しでも行動すれば、
それが集まって大きな1歩になるはずだし、
今の時代は動きを起こしやすいのではと思っています。

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