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檀一雄「埋葬者」に登場するオフイ婆アについて

 太宰治研究で有名な相馬正一の著書に、厚さが辞書ほどもある檀一雄の評伝『檀一雄 言語芸術に命を賭けた男』があります。太宰治と違って現在でも刊行されている文庫本が多いわけではない檀一雄の作品の引用を頻繁に挟みながら、檀一雄の生涯と文芸について批評を交えつつ紹介した労作です。

 その中で「檀文学の最高傑作と評されている」と紹介されているのが、太平洋戦争中に檀一雄が陸軍報道班員として中国を巡っている間に結核に感染してしまった初めの妻リツ子の看病とその死を描いた「リツ子・その愛」「リツ子・その死」です。

 これはもともと時系列もバラバラに短篇として発表していったものを二冊の単行本にまとめたものですが、内容的には延長線上にあるものの単行本としてまとめる際には採用されなかった「埋葬者」という短篇があります。

 内容はタイトルの通り亡くなったリツ子の葬儀から埋骨までを描いていて、相馬正一はこの短篇をエピローグに据えることで「リツ子・その死」にレクイエムとしての性格を与えることになり、より完成度を増したのではないかと指摘しています。

 それにしても、檀は生前に「埋葬者」をなぜ「リツ子・その死」の最終章に繰り入れなかったのだろうか。これを加えることで作品全体の構成に破綻が生ずるとは思えないし、むしろ、これをエピローグに据えることで「リツ子・その死」に鎮魂賦(レクイエム)としての性格を与えることになると思うのだが(中略)「埋葬者」を含まないこの長編は<画竜点睛を欠く>ような感じがしないでもない。この長篇二部作が檀文学の最高傑作と評されているだけに、その中に「埋葬者」が含まれていないことが惜しまれる。

相馬正一『檀一雄 言語芸術に命を賭けた男』

 また、「リツ子・その愛」「リツ子・その死」を紹介する中では、檀一雄の「私小説」についての虚構の問題を取り上げています。檀一雄の実生活上で起きた出来事を描きながらも、そこには必ず編集や脚色、虚構の挿入が行われているということです。その具体的な例として、「リツ子・その愛」「リツ子・その死」に登場する「静子」という人物についての檀一雄本人の証言を取り上げています。

 リツ子の母方の遠縁の娘として登場する静子は、リツ子を励まし、食料の援助をし、息子太郎をあやしというように、何の見返りも求めずに献身的に檀一家を支えてくれる淳朴な女性として描かれますが、物語の終盤では、死に向かい衰えてゆく妻リツ子から目を背けるように檀一雄は屈託なく生き生きとした静子を求めるようになります。死者(病者)を冒涜してまで己の生の欲求に忠実であろうとする檀一雄の残酷とも思える詩情を描くために、なくてはならない人物です。

 この静子について、檀一雄は「風土と揺れる心情と」というエッセイの中で次のように書いています。

例えば、「リツ子」の中に静子と云う女が現れる。これ等は半分は、私の架空の物語りで、これを私の現実の全貌と見られたら、大きな間違いだろう。

檀一雄「風土と揺れる心情と」

 また野原一夫「人間 檀一雄」の中には、静子を構成するモデルについて檀一雄が自ら語った言葉が紹介されています。

なるほど、私が病妻をみとった小田浜と云う部落に静子と云う女性があり、沢庵を貰ったりしたことなどあります。が、私が間借りしていた家にも黎子さんと云う娘さんがいて、ツワを摘んできてくれたり、薪を頒けてくれたり、むしろ、作品の静子に近いのです。が、一番確実なモデルは、現在の私の細君の結婚したまぎわの頃の風貌、動作、行動であり、それを静子に転化してあの作品を完成したものです。

野原一夫「人間 檀一雄」

 さて、「リツ子・その愛」「リツ子・その死」のエピローグ的な短篇「埋葬者」にもおそらく虚構だと思われる人物が登場します。「オフイ」という、神懸かり的な言行によって村の者たちから疎まれ蔑まれてはいますが、亡妻リツ子を悼み、檀一雄を慰め、息子太郎を励ましてくれるこの老婆によって、「もう俺には、同伴者は要らないのだ。孤独の分担は要らないのだ。永遠に亡んでしまった、俺の足枷。リツ子。これこそ、俺が足蹴にかけてつき落としてしまわねばならなかった、先ず最初の俺の恥部ではなかったのか」と虚無とも悲泣とも憤怒ともつかない感情に死者を冒涜しないではいられないような檀一雄は次第に沈静していき、最後はオフイの手によってリツ子の遺骨を埋葬してもらいます。

 このオフイについて相馬正一は「この老婆が実在者であるかどうかは判らない」と書いています。また「実在者を巧みに虚構化して、鎮魂賦(レクイエム)に相応しい人物に造形したのかも知れない」とも書いています。確かに静子の場合のように檀一雄自身の言葉としてオフイのモデルについて言及しているものは無いのかもしれませんが、おそらくオフイのモデルとなったであろう人物についてのエピソードが語られているエッセイがあります。昭和五十一年に番町書房から刊行されたエッセイ集『蘆の髓から』に収録されている「ユーレイ話」がそれです。

 前妻リツ子が亡くなり、三歳の息子太郎を連れて女山の破れ山寺の庫裡の屋根裏に移り住んだ檀一雄は、階下に住む四十くらいの女性から毎夜のように超常現象の指導を受けていたといいます。かなり長いですが引用します。

 私達親子は、二階にいるが、オシッコ、ウンコの時は、いやでも、階段を降りていかねばならぬ。その階段の下のオドリ場のところを、聖女・超常サマ(注:このエッセイ集では登場する全ての人物に聖、聖女が冠せられている)が、占拠していて、私達の上り降りの度に、超常のミコトバをかけられる。
「ホラ、ホラ。太郎ちゃん。お母様の見えたろが?」
 その超常聖女は、いつもオドリ場のひろがりの上に、渋紙をひろげていて、配給米の小石拾いをやっているのである。
 日がな一日だ。
 拾い集めた小石を、小さなガラス瓶の中に封入して、その小瓶をふってみせながら、
「ホラ、ホラ。おッ母様の、シレシレ(ニコニコ)笑うてある……。見えたろが?」
「うん、うん」
 と聖・太郎はうなずきながら大喜びだ。
 超常聖女の話によると、死んだ私の聖女房が小石になって、私と太郎のまわりにちらばり浮遊しているらしく、配給米の中に、いっぱい、まぎれこんでくるそうだ。だから、夜になって、小瓶の蓋をあけると、聖女房のユーレイは大喜びで、夜の闇をかけめぐるそうである。うしろに火の玉を曳きながらだ……。
 夜になる。太郎が眠る。
「出なさったバイ。ほら、ほら、センセイ……」
 戸外から、超常聖女の大声が聞こえるから、あわてて二階の窓をあけて、のぞき出す。
「ほら、ほら、センセイ……」
 いくらいわれても、踊っているのは超常聖女の姿ばかりで、聖女房のユーレイは見えなかった。

檀一雄「ユーレイ話」

 この、踊りながらそこここに遍在するリツ子を指呼する姿は、「埋葬者」のオフイを彷彿とさせます。

「(略) 奥様も、今は、ほんに御安楽ばんも。にこにこ笑うとり召す」
「何処でだね? 極楽でかね?」
「なんの、貴方様(あなっつあん)。ここの空の中にふわーっとひとがっとり召すたんも? ほうら、シレシレ笑うて、見え召さんかんも?」
 と婆は光りの方の空の中を手でゆらゆらと揺るから、私も他愛ない幻視にもてあそばれるふうで、
「太郎。母が笑うとると。ほら、そこの空の中で。お婆ちゃんが手を振ってる、ところで。見えるか?」
「うん、うん」
 と太郎は面白そうにオフイ婆アと私の顔を見較べてから、今度は空の中に自分でも手をゆらゆらとさせはじめた。
「ええ、お母さんのも--賢こか坊ちゃん。お母さんは、おり召す。おり召す」
 太郎を負うたまま、例の通り二三遍くるくる廻って、
「ほうら、ほら。そこにもここにも、空の中にねんねして、シレシレ笑うて、坊ちゃまを見とり召すたんも」

檀一雄「埋葬者」

 また、こうしたオフイの言動は「リツ子・その死」の中では檀一雄自身が太郎に与える形で描かれています。

「ねえ、太郎。もう母はどこにも居るとよ。このお花の中にも入っとるよ。ほら、父のお手々の中に今入った。ほら、太郎のお臍の上にも母がちょんと、とまるとよ」
 太郎はわかるふうだった。うれしそうに跳ねまわって、丁度私のようにこぶしを握って、
「ほらハハが、ほらハハが」を繰り返した。

檀一雄「リツ子・その死」

 このように並べてみると、山寺の階下に住んでいた「超常サマ」が繰り返し語った「お母様はいつもここに居ますよ」という言葉は、太郎に母の死を受け入れさせ、檀一雄にとっても、妻の死を受け入れさせる非常に印象的な言葉だったのではないかという気がします。そして、「リツ子・その死」の最後は、あくまで死を否定し生命の側を選び取った父の、子を連れて新しい生活に入っていくその淋しくも毅然とした心境と決意を提示してみたかったのではないでしょうか。リツ子の死をやがて静かに受け入れていくような「埋葬者」を付け足すことは、その冷徹なまでの生命への志向をぼやかすことになり、画竜点睛どころか蛇足となってしまうと考えたのかもしれません。

<参考文献>
近代浪漫派文庫『太宰治/檀一雄』新学社
檀一雄『リツ子・その愛』『リツ子・その死』新潮社
檀一雄『エッセイ集 海の泡』講談社
檀一雄『蘆の髓から』番町書房
相馬正一『檀一雄 言語芸術に命を賭けた男』人文書館
野原一夫『人間 檀一雄』新潮社

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