この割れ切った世界の片側から

小学生の頃、斎藤佑樹に憧れて早稲田実業に行きたいと言った。親は「それなら受験しなきゃね」と言って、中学受験塾に入れてくれた。単純に息子の希望を叶えてやりたいと思ってくれたのか、もともと中学受験をさせるつもりだったのかはわからない。結果的には早稲田実業には行かず、近くの私立中高一貫校に通うことになった。

中学に入ると、自分は生徒の中では「どちらかというと金持ちでない」部類だった。月に5万近くお小遣いをもらっている友達もいたし、中一から東大受験塾に通っている人もいた。それをただ羨んだ時期は長く続かず、親への申し訳なさを感じるようになった。自分が中学受験などせず公立中学、高校に通っていれば、賃貸住宅で親の書斎もないような家で暮らすこともなく、一軒家を買うことができていたかもしれない。自分の影響で妹も中学受験をしたから、その思いはだんだん強くなった。大学は現役で国公立に行かないといけない。そうでないと、さらに学費をかけさせることになる。サッカーに明け暮れた中高生活で、きちんと勉強を続けることができたのはその思いがあったからだった。

中高時代は学校が世界の全てだったから、自分は裕福でない家庭で育っていると本気で信じていた。お小遣いを増やしてくれようとする親に、使わないからと言って何度も据え置きにしたし、塾も特待生を取れるところに入れてもらった。親の負担になりたくない。それだけの思いだった。

なんとか、東大に現役で入ることができた。中高の友達は大学から一人暮らしを始める人も多かった。大学までは実家から1時間と少しで、十分通える距離だから、一人暮らしで余計にお金をかけることはしたくなかった。バイトなんてする必要ない、という友達もいたが、せめて自分の小遣いは自分で稼がなくてはと思った。そういうひとつひとつの考えには、裕福でないという大前提があった。

大学で、信じられないほど世界が広がった。東大には限られた環境にいたひとしか入らないので、その広がった世界も微々たるものだったが、「首都圏私立中高一貫」が世界の全てだった自分にとっては、違う世界の人が多すぎた。地方から上京してきている友達の中には当然のように生活費や学費のほとんどをバイトで稼いでいる人もいたし、バイトのためにサークルや部活動に入らない人なんて、当たり前のようにいた。そんな人たちが、口を揃えて自分は恵まれていると言っていた。裕福だから、東京まで出てきて一人暮らしができている。それまで自分は裕福ではないと本気で信じていたから、まず信じられなかった。中高の友達の間では自分のような人間は裕福でないというのは共通認識のようであったし、自分の世界はまだ大半が中高時代にできたものだった。それでも、1年、2年と大学で暮らしていると、だんだん自分が特殊すぎる環境にいたのだとわかってきた。

小学校の友達とも会う機会が増えた。高校を出て働いている人も多くいて、大学進学が当たり前だった自分の世界の中に、彼らはいなかったのだと気付かされた。大学にも、小学校時代の仲間内にも、これまでの自分の世界の外の住人がいて、やっと自分の世界はそこを含むようになった。

そこでは自分は、「裕福な方」だった。これまでの自分が否定されたようで、認めがたかった。それでも目の前の友達と自分を比べた時、それは明らかだとわかってしまった。

それから、しばらくはそんなことは考えなくなった。第一にこのことを考えるのは自分にとって不快だったし、第二には、自分のいる世界と考えている世界がやっと一致したから、考える必要もなかった。そんなとき、鈴さんの「この割れ切った世界の片隅で」を読んだ。

これは衝撃だった。同時に、自分は中高生の時からなにも成長していないのだとわかった。自分のいる世界に閉じこもっていて、周りを見ようとしていなかった。むしろ大学に入って自分の世界が広がったとさえ考えていた。自分は社会の中の、まだたった一部しか見ていなかった。

noteを読んで、社会の全部が見えたとは思っていない。鈴さんやその周りの人のことさえ、わかったとは言い難い。彼女がtwitterで批判されているというが、その批判をみても、あながち間違いでないと感じるものも多くある。それでも、これまで大学に入って見える世界が変わったとか、高校生の時は狭い世界しか見えてなかったなあ笑笑、とか言っていた自分が恥ずかしくなるのには十分だった。あのnoteを読んで衝撃を受けるほど、自分はまだなにもわかっていなかった。

私立の中高一貫校に、行きたいと言って行かせてくれる家庭。そもそも、周りに通えるような、通いたいと思うような私立中学がある環境。当然のように大学に行き、当然のように学費を親に出してもらう家庭。そもそも、大学に行くという選択肢を与えられる環境。自分はずっとその家庭で生きてきて、自分の世界は大学で広がってもなおその環境の中にとどまっている。そうでないところで生きている人がどれだけいるかも、それぞれの事情も、自分はなにも知らない。

最近就活を始めて、「社会貢献をしたい」という言葉をよく使う。本心だ。でも、ちゃんちゃらおかしいな、と思う。自分のいう「社会貢献」は自分の知っている世界に貢献するだけで、それは広い世界の、ごくごく一部に過ぎない。当然だ。自分の世界の外にある「社会」を知らないのだから。貢献のしようがない。きっと、このまま就活をすればどこかの大企業に入社するだろう。そこではまた、自分の世界の住人と一緒に、自分の世界の住人を相手に商売をするのだろう。同じ世界の人と結婚して、子供も同じように自分の世界を作っていくのだろう。簡単だと思う。それでも、自分が世界を知らないということを理解することができたのだから、知る努力をしないといけない。それで初めて、社会貢献への一歩を踏み出すことができると思う。

鈴さんが「割れ切った」と言った世界の分断を、なくすのは難しいかもしれない。それでも、世界の片側から、もう片側へ繋がる橋を作ることはできるかもしれない。狭い橋でも、人が渡れる橋を作りたい。そのために、まず世界のもう片側がどこにあるのか、探すことからはじめたい。

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