現代語訳『伽婢子』 幽霊諸将を評す(9)

「最後は川中島の合戦の件だ。信玄から全軍の指揮を任されたお前は、敵陣が西條山にあると決め込んで川沿いを警戒しなかったため、夜陰に乗じて謙信が千曲《ちくま》川を渡ったことにまったく気づかず、翌朝、驚いて陣を立て直す羽目に陥った。攻撃を受けた右翼は元から手薄だった上に、義信《よしのぶ》や望月《もちづき》などの弱将をあてがったためにあっという間に破られた。このまま一気に押しつぶそうと、謙信は自ら前線に出て信玄の本陣を切り崩したが、西條山に備えていた軍兵が引き返し、信玄は万死に一生を得ることができた。しかし、この合戦で典厩《てんきゅう》信繁《のぶしげ》・諸角《もろずみ》豊後守《ぶんごのかみ》虎光《とらみつ》・初鹿野《はじかの》源五郎忠次《ただつぐ》をはじめとした大勢が戦死した。戦いには勝ったものの多くの兵を失い、お前自身も負け戦を恥じて討ち死にしたが、そもそもは備えを怠ったのが原因である。そのようなお前をどうして軍法鍛煉《たんれん》の師範と見なせようか。これが三つ目の罪である」
(続く)

 長野業正《なりまさ》の指摘による、山本勘助の罪の三つ目は「川中島の戦い」の判断ミスでした。文中にもあるように、密かに西條山(妻女山)を抜け出した上杉軍の急襲により武田軍は総崩れとなり、山本勘助自身も敵陣に突撃して死亡したことになっています。
 合戦があった川中島は現在の長野市南部、千曲《ちくま》川と犀《さい》川が合流する地点で、先日の台風で大きな被害を受けた「長野新幹線車両センター」は現地から20kmほど北に位置します。

 なお、人を騙したり当てずっぽうで判断したりすることを「山勘《やまかん》」と言い、一般的には「山師の勘」を縮めたものと見なされていますが、「山本勘助」の略という説もあります。ご参考まで。

 続きは次回にお届けします。それではまた。


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