現代語訳『伽婢子』 伊勢兵庫仙境に到る(1)

 伊豆《いず》国の北条氏康《うじやす》は、関八州(相模《さがみ》・武蔵《むさし》・安房《あわ》・上総《かずさ》・下総《しもうさ》・常陸《ひたち》・上野《こうずけ》・下野《しもつけ》)を手に入れ、大いに威勢を奮い、世の武勇の誉れが高かった。
 あるとき、氏康は海岸に出て遠く南海に臨み、遥かに沖を眺めながら言った。
「その昔、伊豆の浦に流された鎮西八郎(源為朝《ためとも》)は、夕方に鳥が沖に向かって飛ぶのを見て、『きっと海上に島があるのだろう。そうでなければ、夕暮れに鳥が沖に向かうだろうか』と考えた。船を出し、鳥たちの後を追って漕《こ》ぎ行くと、鬼が住むという島にたどり着いたという。これが今の八丈島《はちじょうがしま》なのだろう。しかし、以後、その島に渡ったという者の話を聞いたことがない。誰か八丈島に行き、有様を見て報告する者はおらぬか」
 すると、坂見岡《さかみおか》江雪《こうせつ》と伊勢兵庫頭《ひょうごのかみ》の二名が進み出て、「我らがその島に赴き、探索して参りましょう」と安請け合いした。氏康は大きな船を二艘《そう》造り、坂見岡と伊勢の両名を大将として同心を二十人ずつ付け、吉日を選んで海に浮かべた。南に向かって出向する者たちの心は勇み立っていた。
 伊豆の沖には七つの島があると言われている。そのいずれかの島近くまで船を寄せたところ、急に風が変わり、雪山のように波が高くなった。坂見岡は何とかしてある島にたどり着いたが、それは長年、八丈島と伝えられていた島で、島の有様や住人たちの風俗をよく見て回った後に帰還した。
(続く)

 今回から新エピソード『伊勢兵庫仙境に到《いた》る』をお届けします。
 戦国大名の北条氏康が二人の部下を八丈島探索に向かわせたところ、一名は無事に現地にたどり着いたものの、もう一名はどうやら別の場所――仙境(異界)に行ってしまったようです。
 なお、この話は『北条五代記』がベースになっていて、「坂部岡《さかべおか》江雪《こうせつ》」という男が伊豆諸島の調査を命じられ、八丈島に渡航した伝承を元にしています。

 続きは次回にお届けします。それではまた。


※Amazonでオリジナル小説『ヴィーヴルの眼』を発売中です。
 (Kindle Unlimited利用可)