現代語訳『伽婢子』 幽霊逢夫話(1)

 野路《のじ》忠太《ちゅうた》は近江《おうみ》国の者である。妻は同国野洲《やす》郡の平民の娘で、二人の間に長女が生まれたものの半年後に死去し、他に子は授からなかった。
 永禄《えいろく》十三年、忠太は商売のために鎌倉に下った。しかし、自国も他国も乱れて街道は封鎖され、三年もの間、故郷に帰ることができなかった。
 ある夜の夢で、妻が桜の木の陰で散り落ちる花を見て悲しんで泣いていたかと思うと、急に井戸の底を覗《のぞ》き込んで笑った。夢から覚めた忠太は不審に思って易者に尋ねた。
「風で散る花と井戸は黄泉路《よみじ》を現しております。この夢はよろしくありません」
 三日後、もののついでに確認してみたところ、妻は風邪を患った後に死去したことを知り、ひどく悲しんだ忠太は近江国に帰った。
 妻の面影を慕いながら普段使っていた調度品を眺めているうちに、いまさらながら悲しみが込み上げ、とめどなく涙が零《こぼ》れた。
「生前の愛情は深かったとはいえ、臨終の折にはきっと自分を恨んだに違いない」
 何事につけても嘆きは深まる一方で、寝ても覚めても妻の面影を恋しく思いながら歌に詠んだ。

  思ひ寝の夢の浮橋とだえして覚むる枕に消ゆる面影
 (思い続けていた妻と夢の中で逢《あ》うことができたが、覚めた後の枕元に面影はなかった)

「もし、恋い悲しんでいるわたしの心を知ったら、せめて夢の中だけでも会いに来て欲しい」
 独り言をつぶやきながら日々を暮らした。
(続く)

 今回からお届けする新エピソード『幽霊逢夫話』は「幽霊になった妻が夫に逢って語る」という意味のタイトルになります。
 物語の舞台である永禄《えいろく》末から元亀《げんき》初は戦国時代で、ちょうど甲斐の武田信玄が三河・遠江を攻略していた時期に当たるため、すぐに帰宅しなかった主人公を責めるのは少し気の毒だと思います。(妻の死去を知って急遽《きゅうきょ》帰国しましたが、命がけだったはずです。)
 続きは次回にお届けします。それではまた。

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