現代語訳「我身にたどる姫君」(第一巻 その7)

 姫君たちが暮らしている屋敷は、音羽山《おとわやま》の麓にある。
 庭に引き込まれた水も凍り付いてむせび泣くような音を立て、友としている松の風さえも雪折れの音に埋《うず》もれている。静謐《せいひつ》な夜の気配に、宰相《さいしょう》の君は死別した両親を思い出し、悲しさに涙を流しながら歌を口ずさんだ。

  雪降りて暮れゆく年の数ごとに
  昔の遠《とほ》くなるぞかなしき
 (雪が降り、暮れゆく年の数を重ねる度に、過去の出来事が遠ざかってゆくのは悲しいことです)

 歌を聞き、不憫に思った姫君は歌を返した。

  過ぎにける昔のさらにかへり来《こ》ば
  暮れゆく年もうれしからまし
 (過ぎ去った昔が再び戻って来るのなら、きっと暮れゆく年も嬉《うれ》しいと感じることでしょう)

 こと寄せられた姫君の歌に、宰相《さいしょう》の君はしみじみと涙を零《こぼ》した。
 一方の侍従《じじゅう》の君は、筑紫《つくし》の方にそこはかとなく心を向けていた。

  思ひやる生《いき》の松原立ちかへり
  いつかあひ見る春はあるべき
 (肥前《ひぜん》国にある生《いき》の松原に思いを馳《は》せると、いつか家族と再会できる春はやって来るのかと不安になってきます)

 心の慰めに歌を詠み交わすのも趣《おもむき》深い。三人はそっと身体を寄せ合って横になると、やがて夜明けを告げる鐘の音がほのかに聞こえてきた。
(続く)

 普通、若者たちにとっての年の暮れは、新年に向けて気持ちが明るくなるものですが、姫君と二人の女房はそれぞれの事情で悲嘆に暮れています。
 ここでようやく物語の舞台が「音羽山《おとわやま》の麓」だと明示されましたが、まだ情報が足りないため、具体的な位置についてはもう少し後でお話します。

 以下、ちょっとした余談です。
 最後の「三人はそっと身体を寄せ合って横になると」という箇所、実はどうやって訳そうかと少し悩みました。

【原文】誰《たれ》もかりそめに寄り臥《ふ》し給へるままにて

 この原文を素直に直訳すると下記のようになります。

【訳案1】誰もが一時的に物に寄り掛かって横におなりになったままで

 参考文献に挙げた書籍はいずれも上記内容に準じていて、一番オーソドックスな訳し方と言えます。
 確かに「寄り臥す」は「物に寄り掛かって横になる」という意味ですが、寄り掛かる対象が明記されていない上に主語が複数であることから、別の解釈が成り立ちます。

【訳案2】誰もがふと添い伏しなさったままで

 しんみりとした雰囲気で離ればなれで横になるよりは、身体を寄せ合った方が「らしい」と思い、こちらを採用してみました。
 ただ念のために断っておくと、それっぽい描写はあくまでこの箇所だけで、姫君と二人の女房は肌を許し合うような親密な関係ではありません。また、身体を寄せる場合は普通「添い臥す」と書くので、やや強引な感じがしないわけでもありません。
 しかし、この作品は同性愛描写とは別で、同性同士がふざけて身体を寄せ合う描写なども出て来ますので、まったくのでたらめではないと思っています。

 古語作品における現代語訳の違い・訳者の認識ずれは頻繁にあり、読者がしばしば引っ掛かる落とし穴ですが、ある意味、古語作品を読む最大の醍醐味とも言えます。
 訳された時代の常識や倫理観、そして何より訳者の趣味・嗜好がもろに反映されますので、本当に好きな作品の訳文は、できるだけ複数のものを読むことをお勧めします。
 ――と書いた上で正直に白状すると、今回の「寄り臥す」の扱いは完全にわたしの趣味です。

 それでは、また次回にお会いしましょう。


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