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今私は人生の夏休みを生きている

20代半ば、仕事で中国に長期滞在していたことがある。週末はほとんど、中国の国内旅行をしていたのだが、どこかの都市で観光名所の寺院に入った時、「もうお寺は見たくない」と思った。
その時のその寺院は初めてだったはずだが、お香の煙、がやがやした人ごみ、膝をついて祈る人々、金ぴかで黄色い建物などに既視感があった。

中国滞在は私の人生の中でも特別な体験で、当時の私は間違いなく非日常の生活を送っていた。しかも週末の旅行は、非日常の中の非日常というべき時間だった。
しかし、私はこの瞬間、非日常に疲れてしまっていたのだと思う。

よく考えると、日常生活も特別な状況だった。初めての異国での生活に加え、お客様先に常駐しているのでいつもより張り切って仕事をしていた。同じホテルに長期滞在し、同じ場所に毎日出勤していたが、無意識に気を張っていたと思う。

元々旅行が好きなので、
「折角中国に滞在しているんだから、週末ごとにあちこち旅行したい」
「旅先ではその土地の名所を巡ってみたい」
という思いもあり、当然のように実行していた。
まだ若かったので毎週旅に出る体力もあった。
でも、突然、飽きてしまった。

スタンプラリーの全部のマスを埋めるように、ガイドブックの観光名所を制覇すること。
具体的には「折角ここにいるんだから」と興味もない寺院を見ること。
そういうことに熱意を持てなくなった。
かわりに、滞在している街の普通のショッピングモールをぶらぶらしてタピオカミルクティーを飲んだり、ダイニングバーで仲良くなった友人と公園にお花見に行ったりした。そっちの方が何倍も楽しかった。

思い当たる節は色々とある。
スケジュールを詰め込みすぎて体力的に疲れてしまった。
一人旅が向いていなかった。
文化や宗教に対する理解が足りなかったので寺院の良さが分からなかった。
どれが原因なのかは今となっては分からない。

でも、導き出せる結論はある。
後から振り返って「あの時は輝いていた」と言える時期であっても、飽きたり疲れたりする瞬間は存在する。

そして、今。

私は二人の子供を育てている。子供たちは4歳と1歳。とてもとても可愛い。今の私の毎日は、人生でいうところの夏休みにあたるはずだ。つまり、後から振り返ったらキラキラと輝く思い出がいっぱい詰まった、特別な時期。
子育て期間がかけがえのない時間であると頭では理解しているのだけど、たまには母業を離れて一人でぼーっとする時間が欲しい。
夏休みでも家でごろごろしていたい日があるように。

聞こえてくる蝉の鳴き声が移ろい、蝉の季節がいつの間にか終わるように、子育て期間という人生の夏休みは、じわりじわりと進んで終わっていくのだろう。

そういえば、保育園に迎えに行くと「ママー!」と嬉しそうな顔で駆け寄ってきていた長女が、最近は私の顔を見ると訳知り顔で頷いて、帰り支度を始めるようになった。もしかして、あの、駆け寄ってくる彼女の姿をもう見られないのかもしれない。彼女の嬉しそうな顔を見て、私も嬉しかったなぁ。

こういった何でもない出来事が繰り返される日々を過ごし、子供たちは大きくなる。
私は子育てを楽しんでいる。しかし、疲れたり嫌気がさしたりすることもある。でも、それは悪いことじゃない。人間なんだもの、非日常の連続を生きていたら疲れるよね。

楽しいとしんどいを振り子のように行き来しながら、子育てが続く。同じような毎日を繰り返すけれど、同じ日は一日もない。
これが私の人生の夏休み。
私は一生懸命それを味わいたい。


写真は、中国のどこかの街の高い所から撮った風景(冒頭で出てきた寺院ではない)。
あの頃は本当に充実していた。日々の生活には陰も陽もあったけど、一言でまとめると「楽しかった時期」。
最近、子育てだけで毎日が過ぎていく生活を送っていて少し悶々としていたが、自分の過去の事例をひも解いてみたら割とすっきりした。

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