雪踏に就いて
この記事を書くきっかけは現代における雪踏の不当な扱われぶりを目にしたからである。
現在日本の草履の歴史の中で紛れもなく重大な位置を保持している雪踏が格の低いものとして扱われている。
それも明確な根拠はなく、出処がわからない。
インターネット等で検索をかけてみても千利休が雪踏の考案者であるというという説がにわかに流れている程度で、我らがWikipediaですら大した情報がない。
かくいう私も雪駄に対する風評の根拠を知りたかったので、雪踏の歴史についてを調べてみた。
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今西卯蔵著「はきもの変遷史」 から見る。
雪踏の起源は諸説ある。
特に信憑性のあるのは、尻切という履物が起源である説である。
尻切は、藤原時代から存在し平安時代初期頃の文書によく見られたものである。一般的には藁で作られたもので、貴人は綿や平絹の表を用いたものを使ったらしく、諸説はあるが、草履の尻が破れ易い故に、裏に牛皮を貼り付けたものであったらしい。
古くは公家、僧侶の間にも用いられ今昔物語にも登場する。
これは江戸初期頃まで見られていたようだ。
そして江戸中期に入り、貞享、元禄頃から雪駄が用いだされた。
貞享頃のものは真竹の皮で表が作られ、裏に貼られる革は馬革であった。
たが暫くすると江戸にて切廻しという雪駄の仕上げ方法が案出され、見た目の良くなったものが現れ、たちまち流行品となった。
作者は「元禄時代を最もよく象徴したものの一つであった雪駄」と述べており、その頃の芝居の台詞の一説に
“その廓通ひのいそがしや、日に雪踏が二十五足、やんさ、うんさ、てんのてん、/\/\”
という一節がある。
さらに井原西鶴の「胸算用」という本には、大晦日の日に一日の中でもどんどん値上がりする雪踏に対して「買手ばかりにて売るものなし」。と記されているという。
雪駄がいかに流行していたかが伺える。
そして時代が下り、いったん廃れた雪踏は文化、文政頃には流行りが再来した。
元禄頃のものとは多少の変化はあったが薄給の下女のようなものまで用いていたようだ。
そして「縁取草履」という名前で、現在の芝居でも見られる縁どりがなされ、裕福な女性にも好まれていたようである。
寛政頃の「守貞謾稿」には
「今世、京坂に用ふ重草履は、則ち古の雪踏也。今はうらがねを付ざれば雪踏と云ず、裡鉄打ば遠路に用之久しく堪を要す也」
とある。
形は雪踏でも尻金の無いものは雪駄ではない、と記されようになったらしい。
重ね草履の元が雪踏であった、というのは雪踏の気品を表しているのではないだろうか。
“江戸時代の草履の中で、一番精華を放ち伝統的に用いられたものは、なんといつても雪踏であった”
と記している。この文章から、雪踏が草履の一種とされることがわかる。後々記載する資料からもその様子がうかがえる。
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以上の情報から見ても、雪踏は日本の伝統的な履物であると私は思う。
日本舞踊や歌舞伎の姫君の履物であるビロードで縁取られた草履などはこれらが起源であることもわかる。
現代では着物文化の保護を保護をと叫ばれているが、細かい一つ一つの文化はおざなりにされつつある。
仕立てひとつとっても、柄ひとつとっても、全てが違ってきている。
全く同じものを過去から継承し続けることはもちろん不可能であるだろう。だが、近頃のものは和装文化と名の着いたなにか別物になりつつある。
それも一種の新しいファッション様式として楽しむことは良いことであるとは思うが、過去の文化についても少しは顧みて、流行らせる風潮もあって良いように思う。
呉服屋は文化の継承をととても高価な黒黄八や大島をすすめる。
だが、いくらそのような呉服屋でも履物はウレタンや革、変な色のついた下駄に限られている。
文化に限らずものと言うものは先端から廃れていく。
履物もその先端にあるのだと思う。
細かい文化も見落とさずに伝える努力をする事、 それこそが文化の継承であるように思う。