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泣かなかった

僕はたぶん泣き虫です。
看護学生の頃、実習に行くたびに泣いていました。
それは指導者が怖いとか引率の先生が厳しいとか・・・
そんなことではなく、単純に受け持った患者さんとさよならするのが悲しくて泣いていました。
一番印象に残っているのは、回復リハビリ病棟の実習のときに
腰部脊柱管狭窄症の術後の患者さんを受け持ったときのことです。
僕は、自主トレを提案して一緒にやったり、リハビリのあとに足浴をしたり
一緒に病棟をぐるっと回って歩行練習をしたり、3週間ほど関わりました。
ものすごくしっかりしている人で、あまり表情に感情を出さない人だったし、僕の拙い看護にとりあえず付き合ってくれているのだなぁと感じていました。
3週間が過ぎ、実習最終日に「お世話になりました」と挨拶をしようと思って病室を訪れました。
よく晴れた日の夕方で、病室の窓からはオレンジ色の空が見えていました。
大部屋でしたが病室には他の患者さんはおらず、僕の患者さんがベッドに座り窓の方を向いていました。
僕はゆっくりと近づいて、ベッドサイドで背中越しに
「〇〇さん、3週間ありがとうございました」と声をかけました。
しかし、何も反応がなく、僕はどうしたんだろうと思い、隣に回ろうとしたら
ぶわっと患者さんが泣き出したのです。
「今までほんとうにありがとう。君のおかげでここまで回復することができたよ」と涙ながらに話してくれました。
もちろん僕はもらい泣きしたわけで、ナースステーションに戻ってからも
同級生や指導者さんの前で泣いてしまって、今思うと、迷惑だったろうなと思います。笑
とにかく学生時代はよく泣いていました。


さて、看護学校を卒業し、総合病院の救急に配属になりました。
コロナと同級生です。
当時を振り返ると、看護師として働けるとはいえ、未だかつてない感染症の猛威の最前線へ大事に育てた生徒を送り出すことになった看護学校の先生たちは、「戦争に送り出すような気持ち・・・」
といって私たち学生をなんとも言えない表情で見送られたのを思い出します。
案の定、第一線ははちゃめちゃでした。
何度も何度も来る感染のピーク。
ベッドなんて空いてるわけもなく、普通だったら入院の数値でも
対症療法をして自宅に返す。
為す術なく、亡くなるのをまつことになったとしても
家族に会わせることができず、
「次、会うときは火葬場になります」という家族への説明。
意味が分からん世界でした。
大変だった話はこれくらいにします。
コロナが少し落ち着いた頃、面会もある程度許されるようになりました。
そんな時、僕はスタッフに「お看取り看護師」と異名をつけられていました。
字面だけだとあまりよくないイメージだと思いますが、なぜそう呼ばれていたかというと
もう状態が危ういという患者の受け持ちで家族と一緒にできることを考えたときに
手浴や足浴、好きな音楽や好きだったものなど患者さんのことを一緒にやったり考えたりする時間を作るように意識していました。
そうすると、偶然だと思いますがそのケアをしたあと必ず僕がいる勤務日に亡くなるということがあったのでそんな異名をつけられました。
まあ、当然その時も大泣きです。
なんで泣いているかは当時よくわかりませんでした。
あんまり考えもしなかったので人がなくなるということに悲しみを感じていたんだろうと思っていました。
しかし、今振り返ると「もっとできることがあったんじゃないか」と泣いていたんじゃないかと思います。
なぜ、そう気づいたかというと前置きが長くなりましたが
訪問看護の話に移ります。


訪問看護の世界に飛び込んですぐ、自宅でお看取りの依頼がありました。
慢性腎不全でもういくばくも持たないだろうという話でした。
他のスタッフが初回の訪問に行き、状態を観察しました。
思ったよりも状態は良さそうだという申し送りでした。
依頼から3日目、僕が訪問する予定でした。
この2日間で酸素が開始になり、吸引機も手配され
非麻薬の鎮痛剤の処方も出されていました。
僕が行ったとき、一応、意思の疎通は可能でしたが体のあちこちを痛いと訴え、呼吸も荒く、ファーストインプレッションで「今日だな」となんとなく感じました。
この感覚は病棟にいたときも感じていました。
言葉では説明できませんが、「あ、これはそうだな」みたいな。
今回もその感覚になりました。
台所には奥さんがいました。
「3日間何も食べてないんだけど大丈夫かしら。退院前、寿司を食べたいっていってたからおかゆを作ったの」
とても何か食べ物を口にするという状態ではありませんでした。
僕は一通り保清をして、アイスならいけるかもしれないと提案しました。
すると奥さんの目はきらっとしたのが分かりました。
少し溶かしたアイスを舌に乗せると、本人はうんうんと頷いて「もういい」と。
奥さんは「ほんとにもういいの~?」と残念がっていましたが、心なしか少し嬉しそうに感じました。
何かあったら連絡してくださいと伝え、自宅を後にしました。
なんとなく、またすぐ呼ばれるだろうなと思った僕は近くで時間を潰していました。
1時間ほどしてすぐに「胸を痛がって、苦しがってる」と奥さんから電話がありました。
再び自宅に訪問すると、そこまで大きく状態が変わっている感じではありませんでした。
奥さんからはこの繰り返しやってくる痛みの波を見ていられないからどうにかしてほしいという訴えがありました。
僕はこの時点でご家族に方針を確認する必要があるなと思いました。
奥さんを含め息子さん夫婦も集めて、僕はご家族に話しました。
「痛みを完全に取るというのは難しい。今、ご本人は呼吸するのでも精一杯かもしれません。医師が処方してくれるか否かは別として、今使っているお薬は麻薬が入っていないものなので、もし仮に麻薬入りの鎮痛剤を使うとなれば意思疎通も取れなくなり、状態が悪くなる可能性があります。それでも、そういった薬を使って痛みを取ってあげるようにしたいですか」
こういう話をするとき、もちろん細心の注意を払って言葉を選びますが
なるべくご家族たちが状況やその後の展開がイメージしやすいように話すようにしています。
尚且つ、医師ではないのであくまでも今の状態から考えられる可能性の話をしながらこちらが提供できる限界を伝えます。
いくらこちらが提案しても医師が動かなければできることが限られてしまいます。
だからいつも僕は医師が欲しいであろう情報や知りたい情報をすべてそろえてから報告するように意識しています。
今回も、薬の変更に当たって医師が必要だと思う情報を聴取して、往診医に掛けあいました。
しかし、答えはNO。
処方できる薬は限界。
どうにかこうにか痛みを逃してくださいという指示でした。
この頃はまだ訪問看護を始めたばかりだったので、往診医がなかなか来てくれないというイメージは全くありませんでした。
ここまで話して来てくれないことなんてないだろうと安易に考えていたので家族になんて説明しようか、迷いました。
痛みの波を抑えることができない。徐々に痛みも感じなくなってくる状態になる。波が来るたびにさすったり、声をかけて逃してあげてくださいと伝えました。
大前提、医師の判断になることは話していたのでご家族も渋々納得してくれた様子でした。
苦しい話だなと思いました。うすっぺらく聞こえているだろうなと。
なんとかできないのかと必死に考えましたが何もできませんでした。
2回目の訪問を終え、自宅に戻りました。
夕方ごろ、奥さんからやっぱり見ていられなくて往診医に電話したと連絡がありました。
往診の事務員さんから連絡がきて、再度状況を聞かれました。
ご家族はもう、意識がなくなってもいいから鎮痛剤を使って痛みを取ってあげてほしい。そのまま意識がなくなってしまうリスクについても繰り返し説明して納得されていること、ご家族が不眠不休で頑張っており限界であることを伝えました。
その時の事務員さんはその日何度も僕とやり取りをしていたので、思いが伝わったのか「訪問できるように医師に伝えてみます」と言ってくれました。
実際に訪問してくれることになり、処方も変わりました。
その後、薬剤師さんが訪問に来たタイミングで再度訪問し、一緒にお薬の説明を受けて
レスキューをいつ使うのか家族と話し合いました。
薬を変えたあと穏やかになった気がしました。
一旦落ち着きを見せて、家族の雰囲気少し穏やかになった気がしました。
そのあと、吸引のレクチャーをして、そいえばお寿司食べたいって言ってたけど
お醤油とかスポンジにつけたらどう?とご家族から提案があり、やってみました。
すると本人は顔をしかめて、朝のように「もういい」と。
それに対してご家族が
わさびなんかもつけたらいいんじゃない?と冗談交じりに声をかけて
いやいやと本人が首を振っている様子をみてみんなが笑っていました。
それを見て、なんだ少しうれしい気持ちになりました。
その後、もしかしたらの話もしておかなければならないと思い、ご家族には
息をしていない、手足が冷たいなど何かあったらかけてくださいと説明して3回目の訪問を終えました。
日付が変わろうとしている頃、再び電話があり
「白くなって、息をしていません」と連絡がありました。
僕は「わかりました。すぐに向かいます」と返答し、自宅に向かいました。
向かっている道中、往診医は先に電話がありましたと一報しました。
自宅につくと、ベッド周りでご家族が泣いていました。
一通り兆候を確認し、往診医に報告しました。
ここでびっくりしたのが、来るのに時間がかかるということです。
その時は2時間後と言われました。
その間、エンゼルケアなんてできませんので(指示でする場合もあるそうですが)一旦、車で待機することにしました。
その後、死亡確認をしてもらい、希望の保清ケアを実施して
少しご家族と生前のお話などをしました。
帰り際、ご家族に
「本当にありがとうございました。看護師さんがいてくれてよかった。」
とお言葉をいただきました。
胸がカーっと熱くなったのは感じました。
しかし、普段なら号泣なのですが、なぜかその時は涙がでませんでした。
なぜか考えてみましたが、きっとやりきったのだと思いました。
今自分が持てる看護力を出し切ってケアしたのだなと。
学生時代はもちろんですが、病院だとルールやシステムがあって必ず制約がありますが
在宅は基本的なルールはありますが、割と家庭によるので自由度が高いと思います。
だから、今回の症例に関しては家族に全力で寄り添って持てる力を出し切ってケアできたのかなと思いました。
その時、いままで僕がずっと泣いていた理由はもっと何かしたかった。何かできることはもっとあったんじゃないかという悔し涙だったのかと思いました。

長くなりましたが、僕の泣かなかったお話でした。


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