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愛という感情

1.愛という感情

*エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』のなかで「愛するとは能動的な活動である」と言った。また、「技術」であるとも。
(*エーリッヒ・フロム…ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者)

果たして
“愛”とは、行動なのか、感情なのか。

行動ならばどのような行動が“愛”なのか。
感情ならばどのような感情が“愛”なのか。


私の答えは、「愛は感情である」。

“愛”は感情であり、
“愛する”は行動(技術)である。
というのが2023年1月現在の私の答え。

“愛”という感情は、
“愛する”に繋がる感情のことだと思う。

世間的には、“愛(感情)”は“愛する(行動)”を含んだ意味で使われているように感じる。
“愛する”は動詞のため行動であることを理解するのは難しくなかったが、“愛”がなんだかよく分からなかった。

あらゆる能動的な行動の元は思考や感情であると思うので“愛”は“愛する”の源なのではないかと考えたわけだ。

フロムの『愛するということ』が答えというわけではないが、私にとってはテスト後に友人と答案用紙を突き合わせて見比べたときのようだった。
愛するとはどういうことなのかが、3年ほど前から私が考えている「優しさは誰のためなのか」とほぼ一致していて驚いた。

仲間、恋人、家族、ペット…。
それらに愛を感じるとき、自分が幸せなのと同時に
与えたい、
優しくしたい、
幸せになってほしい、
そう感じている。

だからフィクションに見られる一見美しい身勝手な愛は、残念ながら愛とは呼べないのかもしれない。


2.愛について思うその他諸々

“愛”は感情であるという話をしてきたが、私は“愛されたい”という感情(欲望?)がよく分かっていない。

他者から好感を抱かれたいという気持ちはある。しかし、私の存在が誰かの中に「与えたい、優しくしたい、幸せになってほしい」などの大きな感情を生むような影響を及ぼすことが想像できない。

両親と友だちからは愛を感じる。
ありがたく受け取ってはいるがとても不思議だ。

一体、誰が、いつ、“愛”という言葉を生み出したんだろう…。

◇ ◇ ◇

シンガーソングライター・YeYeの「ゆらゆら」という曲にこのような一節がある。

「当たり前が合わないこともある
そんな毎日を歩む」

当たり前が合わない。
こういうとき、愛は無力なのではないか?

昔と違って自由恋愛の時代になり、性的マジョリティ達の恋愛・結婚に対する社会的障壁は低く少なくなった。
それにより、個人間の隔たりの越えられなさを痛感することになったのではないだろうか。

社会的障壁は越えられても2人の間の障壁が越えられない…。愛では越えられない壁。

けれどそれは愛が乏しいというわけではなくて、愛をもってしてもどうにもならないこともある。愛は万能ではない。

きっとそれだけのこと。

◇ ◇ ◇

“愛”は感情。
“愛する”は行動。
そして“愛”は万能ではない。

愛は意外とシンプルなのかも。



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