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優しくするのは誰のため?


優しさの根源はエゴである。

他人に優しくするとき、
それは相手のためにやっているのだろうか。
否。全て自分のためだ。


例えば。

私は電車の座席に座っている。
席は全て埋まっていて、立っている人がちらほら。そこに腰の曲がったおばあさんが乗ってきて私の近くで立止まった。
「よかったら、座りますか?」
腰を浮かそうとしながら声をかけると、おばあさんの顔が綻び「ありがとうございます」と言って私の空けた席に座った。

これは一般的には「おばあさんのために席を譲った」と言われるだろう。だが、私は自分のためにやったのだと思っている。

おばあさんが座れると私がうれしい。
つまり、自分がうれしくなりたいためにやったのだ。

「情けは人の為ならず」というが、
優しさはいつか返ってくるものではなく、その場で「うれしさ」という形で自分に返ってきている。
ということは、自分のした優しさに対して相手に見返りを求めることは、過剰に見返りを求めていることになる。


一方、優しさの根源はエゴなのだから自分が親切にしたいと思えば何をしてもいいのかというと、そうではないだろう。
相手の迷惑になる優しさは優しさではなくただのエゴになってしまう。

だから「あなたのため」「お互いのため」と言って迷惑に感じる行為の押し付けは、優しさのふりをした相手のただのエゴであるため無理に受け取る必要はないのだ。


能動的な優しさの根源はエゴであり、
それが相手のためになれば優しさ、
迷惑になればエゴ。

この考えに辿り着いてから、勝手に期待して凹むことが減り、優しくできる機会が巡ってきたことをうれしく思えるようになった。

「他者に優しくするのは自分のためである」という考え方は今まで聞いたことがないが、私が知らないだけで普及していたりするんだろうか…。

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