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『暇と退屈の倫理学』(増補新版)國分功一郎【序章〜第三章】

久しぶりに読書会に参加した。
ツイッターのスペースで感想を交流する形式だ。

この本は基本的に「暇と退屈」に関する本の引用があり、その後に著者の考えが書かれる流れだ。
私は小説でない本(新書など)に苦手意識があり、今回も読む前は不安だったがとても読みやすかった。なにが読みやすくさせているのだろう。本の感想と併せて、読書会でのメモも記しておく。


・序章 「好きなこと」とは何か?

経済は消費者の需要を受けて生産者が供給していると思いきや、現代では「供給側が需要を操作している」。

これは実感としてその通りだと感じる。
服の流行も食べ物の流行もどこかで決められて、雑誌やTV、ウェブなどのメディアによって「これが流行ってますよ!」「次来るのはコレ!」というように情報が提供される。それによって私たちは対象を消費したくなる。

では、主体的な好きなどあるのだろうか?というのがこの章での問い。

「『好きなこと』とは何か?」という問いに対して一冊を通読しての私の答えは、「仕事があってもなくてもやりたいこと」である。暇を作ってまでやりたいこと。それがパスカルの言う“気晴らし”ではない好きなことだと思う。

(読書会メモ)
◆パスカルの説「退屈の気晴らしを、やりたいことだと勘違いしている。そのことを認めない者は愚かだ。」に対してどう考えるか。

・その通りだが、気晴らしであることは善でも悪でもないと思う。
・人の為に熱意を持って活動している人もいるのでイラッとした。


・第一章 暇と退屈の原理論

内容を図に整理した

上部
・退屈の反対は快楽ではなく興奮である
→興奮したいために事件を求める
・幸福とは熱意を持った生活が送れること
→熱意の方向性が争いに向かうと危険

・「楽しい」と「不幸」の2つの種類がある点で、興奮熱意は似ている。それならば、楽しい興奮、楽しい熱意を求めたいものだ。

下部
著者は「幸せな人というのは、“快楽を求めることができる”人。その人は事件を求めることがない。」と言う。※事件というのは、その出来事の前と後を区別してくれるもののことである。
例えば、戦争中は戦争自体が事件だ。しかし、人間は慣れる。そうなると何かしら(被害ではない)事件を求めるようになるのではないか?また、「欲しがりません、勝つまでは」というスローガンが掲げられていたように、“快楽を求めることができない”状況である。

したがって、戦争を例に出すと著者の主張は飲み込みやすいかもしれない。


・第二章 暇と退屈の系譜学

人間はいつから退屈しているのかというと、遊動生活から定住生活に変わった頃からだという。

私が興味を惹かれたのは、「暇と退屈」とは直接関係ないが、死者との関わりの変化だ。遊動生活であれば死者は連れていけないためその場でお別れとなる。しかし、定住生活では死者の肉体はその場にあり続けることになる。

『「におい」の心理学』(足立博・著)に、嗅覚が衰えて脳が発達してきたネアンデルタール人が死者の墓に花を供え始めた、と書いてあった。
脳の発達・定住生活・弔いとは深く関わりがありそうだ。

(読書会メモ)
◆暇はいつからあったのか

・人類では暇と退屈が生まれたのは定住生活からかもしれないが、動物全体で見ればもっと前からあったと思う。肉食動物は暇そうに見えることがある。
・草食動物は命を守る為に暇がないだろう。


・第三章 暇と退屈の経済史

・19世紀のヨーロッパでは暇を誇示する文化があり、仕事をしなくて良いぐらい金があることを、使用人を雇うことなどで示していた。暇を誇示することを「顕示的閑暇」と呼ぶ。

一方、現代では名付けるなら「顕示的多忙」があると思う。いわゆる「忙しいアピール」だ。仕事かプライベートかは関係なく、予定が詰まっていることは人生が充実していることだと考えていることの表れなのではないかと思う。
やはり現代では「暇人」は「やるべきこともやりたいこともない哀れな人」という価値観があると感じる。

私自身はやりたいことが多い割に体力がないので、圧倒的に時間が足りない。そのため「暇人」は大変うらやましい。時間が有り余っているのに暇だという人を哀れだと思う部分は自分にもある。

・ヴェブレンの製作者本能論には反論したい。製作者本能とは、有用性や効率を高く評価し無駄を嫌う性質が人間の本能としてある、というものだ。

ウィリアム・モリスはそれに対して「芸術的な手作りの日用品が人を豊かにする」と反発したが、私は製作者本能自体に穴があると思っている。

無駄を嫌うのが人間の本能ならば、なぜ日本では未だに手書きの履歴書を求める企業が多いのか。大学時代の就職活動では全ての企業が手書き→郵送だった。1946年に坂口安吾が『堕落論』でわざわざ手間のかかる方法を好むことを批判したのに未だに、だ。

ビジネスでないなら心がこもっていると感じて手書きを尊ぶのは良いが、効率を求めるべきであるビジネスでも手書き文化が残っていることから、製作者本能は本能ではなく単に文化の違いだろう。

・今でも休暇は仕事をするためにある感覚だ。
休みの日でも「仕事のストレスを発散させる仕事」をせねばならない。病気になれば「体調管理不足だ」と言われる。監視されていないだけで、フォーディズムの時代と変わっていないじゃないか。
フォードは人間に作業環境を合わせた。メンタル面でもそのようになるのが理想ではある。

(読書会メモ)
◆フォーディズムについて

・効率や生産性を求めるとフォーディズムに行き着くと思う。
・労働者の安全に繋がっているから悪いことではない。
・フォーディズムは終わったといわれる現代でも残っているところはある。食品工場では、スパイすることはないが外国人労働者はプライベートもある程度管理されている。

話すために感想をまとめるというのは大変な作業だが、真っ向から自分と向き合っている感覚がある。

第四章以降は、「そもそも退屈の違いは何か」であったり解決策に迫っていったりするので、また参加者の方の感想を聞くのが楽しみだ。

続く。

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